吾妻光良 『ブルース飲むバカ 歌うバカ』

 

ブルース飲むバカ歌うバカ

ブルース飲むバカ歌うバカ

 

 

 吾妻光良、かあ、いとなつかしや。

 77年の春、早稲田は八号館前で、料理用ワインのボトルをかたわらに、生ギターでブルース弾きまくり歌いまくりで騒いでいたのを覚えている。「ロッククライミング」だっけか、理工学部にあった軽音楽サークルだったような。

 その後、『Player』誌に連載を持ってて、もちろんブルース以外のことなんざ書けるわけもなく、毎回毎回バカ騒ぎノリの「昭和軽薄体」(笑)まがい、いや、どっちかっつ~と山下洋輔あたりに影響されたんだと思うが、何にせよそういう騒々しくもけたたましい文章を書き殴っていたなあ。おもしろかったし、好きだった。

 文化放送だかどこかの音響スタッフとして働いている、と聞いている。今もたまに、深夜番組のクレジットロールにチラッと名前が出てくることも。それでいて、スウィンギングバッパーズ名義でCDもたまに出して、趣味、というより道楽、としての音楽の本道をまっしぐらに千鳥足(妙な言い方だが)、というのがありありで、いや、ご同慶の至りであります。

 地方から出てきた自意識過剰のガキだったこちとらが、結局は芝居のまわりに入っていったのだが、梅雨のあとくらいだったか、そのことを報告しに行った時も、そうかあ、演劇少年になっちゃったかあ、と呵々大笑、と言って、だからどうということもなく、いつもと同じように酔っぱらってギター一本で同じようなブルースをかき鳴らし我鳴っていただけだった。何でもありだ、好き勝手に生きやがれ、という突き放したやさしさ、みたいなものをどことなく感じていたなあ、と、今になって振り返ってみて、思う。

 特別、なことでもなかった。人生、好きなことやって好きに生きていいんだ、ということを体現してくれているようなオトナ、が当時はまだ、そこここにいた。そんな中のたまさかひとり、に出会い頭に出くわしてしまった、そういうことだったのだと思う。音楽や芝居やブンガクや、何であれそういう分野にうっかりと淫してしまったことで、田舎の親や親戚からは「人生間違えやがった」と苦い顔されるような、そんな生がそこら中に転がっていた、今思い返せば。

 ガクモンの方面だったら、それは文化人類学だの民俗学だののまわりに生きた標本みたいなのが確かにいた。山口昌男にしても、網野善彦にしても、いや、そんなすでに当時ある程度の名前になっていた人たちじゃなくても、彼らもまた正しく one of them として、そういうわがままな「自由」、生きることと抜きがたくからんでしまった「道楽」の気配を濃厚に漂わせた御仁というのとは、普通に行き会えるものだったはずだ。特に、大学なんてものに籍を置いて大学生をやっていたならば。

 将来ってやつはいつも茫洋としていて、二十歳を過ぎても二十五歳になっても、まだ自分がどうなるものか、何より自分自身が何ものなのか、わけわからん、という状態が日々続いていた。大学院に「入院」したのだって、何か確かな目算や野心があったわけじゃない。大学の教員、研究者になれるかも、という気分はないではなかったけれども、でもそれも、私大のそれも民俗学なんてところにひっかかってる限りまずあり得ん、ということは速攻でわかったし、学部から大学院へまっすぐに入ってきた東大だの何だのという場所にいる連中の「アタマの良さ」と、それに必然的にまつわっている毛並みの違い、ってやつが、こりゃもう初手からご縁のない世界、ってことをどうしようもなく教えてくれていた。

 ということは、いまどきの若い衆みたいに先行き不安、自分がどうなってゆくのだろう、てな閉塞感があって不思議はなかったと思うのだが、しかし、そういう煮詰まった感じ、ってのはなぜかそれほどなかった。それだけ自分のやっていることが、まあ、楽しかったんだろうし、そんな日々がそれなりに充実もしていたんだろう。

 だから、オヤジの無責任を承知で敢えて言う。 みんな将来を決め打ちし過ぎるんじゃないか、とは思う。あるいは、決め打ちしなければいけない、と思わされ過ぎてるんじゃないか、とか。

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 『ザ・ブルース』『ブラック・ミュージック・レビュー』『ブルース・アンド・ソウル・レコーズ』……巻末にあるこういった初出誌のリストを眺めて、どこでどういう具合に出されていた雑誌なのか、わかる人は絶滅品種だろう。あたしもわからん。人並みに楽器もいじっていたし、ブルースも聞いてきたけれども、限られた自分のリソースをそっち方面一辺倒に消尽するようにはならなかった。これはもうはずみというか縁、としか言いようのないもんでしょうがない。けれども、しかし、なのだ。70年代末からそれこそ雨後のタケノコのようにあちこちで生まれ、勝手に「内輪」をつむぎ出して盛り上がっては消えていった、それらさまざまなやくたいもないそれら零細マイナー系カルチュア領域での雑誌たちの「ノリ」みたいなものは、当時リアルタイムで接したことのない領域だったとしても、いやになるくらいわかる、そんなものだ。

 だから、相も変わらず新鮮、である。眼を通し、読んでゆきながら、明らかに自分の裡に当時の空気や昂揚感、が蘇生してくるのがわかる。あ、いや、もっとむくつけに言う方がいいか。輝かしき若気の至り、今だとそれこそ「中二病」(笑)でかたづけられるような、しかし確かに最強の勘違いをそこら中で多くのろくでなし予備軍たちが24時間シフトでやらかしていたけったいな時代の、まさに「昭和」末期のあっけらかん、が再生されてくるのだ。ほら、こんな風に。

 確か、高校2年の終り、もしくは3年の最初だったと思う。友達のTというやつが、アーフーリーの『アーリー・レコーディングス』を貸してくれた。その頃は、3大キングと、ジョン・リー、マディ、そして何故かジョニー・ヤングぐらいしか聴いた事がなかった筈だ。最初に聴いた印象は何かわからないけど「暑い音楽だなあ」というような感じだった。しばらくすると「やけに生々しい」という点に気づいた。でも、とにかく、聴いたとたんに、「うん、こりゃあ凄い、ばっちしだ」という様な感じでは、決して無かった様に思う。


 そろそろ受験という事もあって、自分の勉強部屋にいる事が割とあったので、ステレオからカセット・テレコにダビングして、いろろいなものを自分の部屋で聴いていたのだが、確か、B・Bのクック・カウンティ・ジェイルでのライヴをC-60に入れて余ったところに、ライトニンのA面の1~4曲を入れてあった。部屋で聴いていると、母親が入ってきて、「そんな悪魔の音楽を聴くのは、よしなさい」と言ったとしてたら凄いが、実際は、「そんなお経みたいなのが近所に聴こえたら恥ずかしいから、小さくしなさい」と言われたのだが、「いやだなあ、これが格好良いんだよ」とか虚勢をはってたこともある。

 このところ確信している。受験勉強とサブカルチュアの関係、というのは、もっと掘り起こされねばならない記憶をはらんでいる。別に学校がらみでなくても、「勉強」への信心とある程度までのそのための身体技術というやつは、サブカルチュアにイレ込んでゆく際の最低限の一般教養として実装されるものだった。ベンキョーできないやつは好きなことを好きなように楽しむこともできない――そんなわかりやすいことすら、当時はまだ、誰も教えてくれなかったのだけれども、今やしかし、それをことばにして伝えて納得させないことには、いまどきの若い衆のあの茫洋とした閉塞感にくさびのひとつも打ち込むことはできない、と思う。

 ああ、そうだ。吾妻光良、と同じように、王様、もまた、そういう意味で、素晴らしいんだよねえ。これはまた改めて、かも。

ブルース飲むバカ歌うバカ

ブルース飲むバカ歌うバカ

 

片岡義男『10セントの意識革命』

 僕が知っている日本は、戦後からだ。しかし、社会的なつながりを多少とも持った上での体験は、高度成長の急坂の途中あたりからだ。戦前や大正、そしてそれ以前について、僕はほとんど何も知らない。

 なにげに片岡義男がすごいことになってる、ってのは以前から、それも結構あちこちで言っていることだ。けれども、どういうわけか世間はあまりそうは感じていないらしい。それほど、すでに片岡義男という固有名詞は「遠い」ものになっているのか。彼の名前をもてはやした時代との距離感と共に、すでに押し流されてしまっているということなのか。

 でも、彼はきちんと自分の仕事をしている。地味で目立たないけれども、着実に。90年代の後半、それこそ「失われた10年」などと言われてしまった時期の中ほどあたりから、彼は間違いなく「ニッポン」にもう一度邂逅するような道行きを始めている。知らない? だったらそれはかなり不幸だ。少なくとも、今のこのニッポンの〈いま・ここ〉を呼吸せざるを得ない活字読みの習い性にとっては。

 実現したものを、幸せと呼びたければ、そう呼んでもいい。そしてこのような自由を、少なくとも建前としては誰もが自分の意志で選ぶことのできる社会は、民主社会でなければならない。太平洋戦争に大敗したあと、アメリカからあたえられたものとして、あるいはどこからともかく目の前にあらわれた次のものとして、このような民主と自由のなかへ、日本の人たちも入っていくこととなった。

 

 それから五十年をへて、彼らの手に入ったのは、大衆としての自由だ。自分が大量生産したものを自ら大量に消費する大衆、つまり自分たちが消費し得るものしか生産し得ない大衆となって初めて、大衆としての自由を日本の人たちは手にした。自由のために闘うことは一度もなかったが、大衆消費社会を作る作業への加担は、存分におこなった。

 原節子やら何やら、映画を介して「戦後」の、高度経済成長期の「ニッポン」を「発見」してゆく一連の仕事、『彼女が演じた役』(1994年 早川書房)、『映画を書く』(1996年 KKベストセラーズ)、『映画の中の昭和30年代』(2007年 草思社)などは、橋本治の『完本チャンバラ時代劇講座』(1986年 徳間書店竹中労の『聞書アラカン一代』(1976年 白川書院)などと比肩し得る、日本語を母語とした広がりの中で形になった限りでの、映画というサブカルチュアを素材にした良質の「歴史」書になっている。近代ブンガクの呪縛から闊達に遠ざかることを奇しくも自分のものにしてしまった、その意味でうっかりと「国際標準」に接近できてしまった、そんな知性たちの仕事。

 でも、それ以前から片岡義男ってのは、そんな知性、ではあった。はるかずっと昔から。その証拠のひとつが、ほれ、この『十セントの意識革命』。犀のマークの晶文社が本気でまぶしかった時代の珠玉の一冊。

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 確か、大学に入って間もない頃だった、と記憶する。最初に抱いた印象は、どうやらこの書き手にとっては「日常」というやつが、おそらくこちらが見えているものとは違う風に見えているらしい、ということだった。もう少しほどいて言えば、それまでの「戦後」のあたりまえの装置の内側から見る、見せられていた風景とはまた別の、そんな「日常」。そしてそれは一見「アメリカ」というフィルターを介して像を結ぶような、その限りでそちらの方こそニセモノであると当時の環境では思いがちな、思わされがちなものだったりもしたのだが、でも、ならばなぜそのニセモノの方に確かにココロ惹かれている自分があったのか、そのあたりのことは当時、まだうまく自分で振り返って考えることができなかった。

ネッド・ポルスキーの『ハスラーなんて本を紹介しながら、プールバーのハスラーの生態について語る文章も混じっていた。アメリ社会学エスノグラフィーのひとつ。実物はもっと後、実際にアメリカの学生街の古本屋で仕入れてきた雑本の中から見つけたが、片岡義男がこれに言及していたことについて改めて気づいたのは、実物を手に入れてからのことだった。身の丈の〈リアル〉がそのように、普通の人たちにとってのふだんの読みものとして読まれている、ということの衝撃。○○学、などといういけ好かない渡世に首突っ込むことになるなどまだ思ってもいなかった頃、それでもそれは「日常」とことばの関係がそのように密接になっている情報環境のありよう、というやつに気づかせてくれる触媒にもなった。

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 映画やバイクやサーフィンやレコードや……ええい、とにかく何でもいい、そんな間違いなく身のまわりにある「もの」や「こと」をそのまま臆せずことばにしてゆけばいいこと。その連なり、積み重ねの向こう側に「社会」や「歴史」や「文化」ってやつは必ず姿を現わしてきてくれること、届くこと。それがいかに「戦後」のあたりまえだった当時の作法とずれたものであっても、他ならぬ自分自身が日々生きている「日常」とは、すでにそのような「もの」や「こと」で否応なしに充ち満ちている、そんなものになっている、ということを正しく思い知る糸口のひとつになったのだ、片岡義男の書いたものは。

 「赤さびだらけの自動車への共感」と題された一文は、大衆消費社会の真っ只中でどのように難儀をしのぎながら、世界と自分との緊張感を失わないようにしながら誠実に、そして欲張りにも美しく(!)生きてゆくことが可能か、という見果てぬ命題について、〈いま・ここ〉においてもなお、わかりやすく眼の前に示してくれている。『ミステリーマガジン』連載時の誌面での位置づけは知らない。けれども、こういう格調をはらみこんだ文章が平然とそこにあってしまえるような、雑誌というメディアそのものがそんな時代を呼吸していたという証しなのだと思っている。

はまぞう、にも書影なし……(T.T)

 

10セントの意識革命 (1973年)

10セントの意識革命 (1973年)

 

 



 

谷川雁 「びろう樹の下の死時計」


はじめ私は道ばたの草むらにつないである牛の傍をすりぬけたとき、その牛がまじまじと私をみつめるのに閉口した。「内地」ならば、ふてくされて知らぬ顔の半兵衛をきめこむのを得意としているこの獣がゆっくりとみつめる大きな眼には、なにかお互いの寂寥感を媒介とした会話の可能性みたいなものが感じられて、狐でも狸でもかまわない、生ける物と交渉をもてるものなら、「化かされる」という形式でもよいから招きよせたいという気になるのだった。昔の妖怪譚などはこんな孤島や森に住む人たちが孤独をまぎらすためにむしろ進んで「化けてほしい」と願う欲求の方に相当の比重をかけて考えてよいのではあるまいかと思うほどである。

 「南島」はずっと敷居が高かった。いまもって高い。そもそも、嘘でも民俗学をかじっておいてそのように「南島」に距離を置くなど、当の民俗学自体が溶解し果てた昨今はいざ知らず、まだ存分に「思想」が活き、その懐で民俗学もまた不幸な延命を始めていた30年前においては、その態度自体で外道確定。あり得ない話だった。それは少し後になって、村井紀などが「南島」イデオロギーを言説化してゆくようになるまで、自分の裡にわだかまっているものだった。ある時期以降、「民俗学にはもう関わりたくない」とつぶやき、仄聞するところでは「○○クンたちに任せる」と冗談めかしてつけ加えた、とも言われる村井紀とその仕事には、その程度に恩義を、ひそかに感じている。

 60年代始め、戦後の「南島」研究が軌道に乗り始めた時期にそれらの島々に赴いた者たちの多くは、「日本」の「古層」を探しに行くという戦前以来のモティベーションをベースに、しかし同時にそこに、「戦後」の言語空間ならではの新たなトッピングを施してもいた。その人気のアイテムのひとつが「縄文」だった。だが、そのことの意味は、当の「南島」研究の自他共に認める本隊だった民俗学文化人類学の界隈において、未だうまく対象化されていないように思う。「古層」や「エトノス」(このもの言いの一時期のもてはやされ方それ自体、すでに正しく「歴史」だ) にうっかり惹かれてしまうような性癖が、にわかに「縄文」にも共鳴するようになり始めていた。もちろん発信源は、たとえば岡本太郎であり、彼の言説を増幅してゆく仕掛けを獲得するようになっていた情報環境だったわけだが、そのような時代、そのような〈いま・ここ〉にその頃、民俗学文化人類学も、そして「南島」も包摂されていたこと、その認識を介してもう一度、「南島」言説というのは洗い直される必要がある。

 で、谷川雁が出てくる。あたし的には、だ。なのに、谷川雁の仕事が「南島」研究の正統たちの中でまともに言及されたものを、ほとんど見たことがないのだ。「南島」研究の正史においてその痕跡は、吉本隆明はもちろん、おそらく島尾敏雄などよりもまだ、薄い。このあたりの遠近法というか、「思想」「論壇」系ジャーナリズムの当時の環境における固有名詞の位相というのも、あり得べき「現代民俗学」の射程内におさめられるはずのものだ。

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 「びろう樹の下の死時計」は、『中央公論』1959年8月号が初出。昭和34年、あたしの生まれた五ヶ月ばかり後だ。4年後、『工作者宣言』に所収。現代思潮社版のものは、何度か装丁を変えて再版されているけれども、パッケージとしては『ドキュメント日本人』のシリーズに収録された際のものが、やはり抜群に納まりがいい。谷川健一の解説ひとつがあるだけでも値打ちもの。「無告の民」というもの言いは今なお、素敵なものだと思っているが、その内実を堂々、朗々とマニフェストする調子は、好き嫌いを、そして時代のつき具合を棚上げしてなお、いい水準だ。何より、このシリーズ七巻「無告の民」に収録されている文章の多くが書き下ろしであり、そしてそれらの中からこの解説は言及していても、なぜか「びろう樹の下の死時計」についてはものの見事に何も触れていない。だが、それはむしろ、雁のことばによる「南島」の〈リアル〉の造形力について、兄健一が編者としてこの一巻を編む段において、あらかじめ認めていたということの証しなのだと思う。

もはや疑う余地はなかった。島の生活の起源は古代のかなり奥深い時期にまでさかのぼることができる。そしてこのいまだに一坪の水田もない島でもっとも重要な祭が稲祭であることはいえ、ほとんど縄文と接続するかもしれない古式の感情が保たれているのだ。(中略)あの怪奇と沈黙が重なりあった縄文土器の装飾性は、この島にみられるような孤独と不毛に向いつづけたあげく生みだされたものであることを私は信じるにいたった。おそらく稲作の伝来によって人々がほんの薄皮一枚だけ飢えから遠ざかり、湿潤な低地での強度な集団生活に編みこまれたとき、突然の上昇にもとづく緊張の緩和が独立不羈なるもののはてしない墜落をさそいだしたのであろう。

 下部構造と上部構造、生産様式と文化、といったかつての大学の人文系でそれこそ耳タコに繰り返され、否応なしに刷り込まれもしてきた図式のあれこれが、しかし、わずかこれだけのことばによってにわかに生き生きし始めたりする不思議。「詩人」であること、その分際から繰り出され、操られることばがそのように情報環境を超え、結果として時空をもふと超えたりすることの愉快。「文学的な衝動を日本民俗学への衝動へと転化させた柳田、自分の情感を民俗学とは別に短歌に託した折口、農漁民の生まの声を整序せずに造形した宮本」という、解説中の谷川健一の簡潔にして的確な批評の視点は、その延長線上に弟谷川雁のことばを想定していたものと考えるのは、さて、こちらの深読みに過ぎるだろうか。

工作者宣言 (1959年) (中央公論文庫)

工作者宣言 (1959年) (中央公論文庫)

 

稲垣恭子『女学校と女学生』

私にとって、最も身近な「女学生」は母である。吉屋信子夏目漱石を愛読し、手紙やスピーチに独特の感情表現を込め、ミッション・スクールと修道院に憧れ、女学校時代の友人とファーストネームで呼び合う「万年女学生」の母に対して、面白さと同時に身内ならではの気恥ずかしさも感じてきたものである。

 フェミニズムが置いてきぼりを食らい始めている。当人たちがそう認知しているかどうかは知らない。けれども、想像できる限り最も気の毒な方向で、情況(敢えてこの表記を使ってみたい)から落伍し始めているのがはっきりと見える。

 それも主に同性からだ。何も俗流保守の考えなしに軽蔑されているということではない。そんなものなら初手からそうだ。同じインテリないしは本読み世間の、おそらくはフェミニズムにとっていちばん味方となってもらいたかったはずの同性のインテリおよびその後世たちから、役立たずとして遠ざけられているのだ。

 何も論戦で負けた、こっぴどく論破されたとかそういうのでは全くない。あくまでその具体的な視点と態度と、そしてその上におおむね立った仕事の微細な積み重ねにおいて、これまでのフェミニズムの言説が拠って来たった前提というのが何だったのか、そろそろきれいに浮かび上がらされてしまったということだ。いや、もっとはっきり言おう。何よりもみっともなく恥ずかしいものにさせられてしまった、と。ああ、ほんとに、あたしが上野千鶴子だったら、もうほんとに逼塞して世捨て人になっちまうくらいに恥ずかしい、はずなのだが。

 そんな中で、当のオンナたちの間から、言葉本来の意味での自らの歴史と来歴について足もとから気づいてしまった、そんな機運がちらほらと出てきている。それはほんとに、オトコだオンナだをひとまず措いておくとしても、まず何よりこういう水準の「歴史」や「文化」に責任を持たねばならない立場の民俗学者として、素直に喜ばしい。

 「女学生」というのもひとつのターミナルになっている。戦前から連なる「歴史」の相において、それらを微細な自身の経験の内からことばにしてゆこうという志向性は、フェミニズム相対化以前からあったものだが、でも背景となる文脈が違うものになっている分、闊達で屈託ないものになっている。本書などはその典型。自分の母親の「女学生」時代の記憶の掘り起こし。もちろんそれは母子二代続けて「女学生」であり得たような自分自身の家庭環境について自覚してゆくこと、も含んでのことであり、そういう社会的背景の上に自らの言説もある、ということについての補助線を引いてゆくことでもある。

 オンナとは、とか、オトコとは、といった問いの立て方をうっかりしてしまうような性癖というのは、ニッポンとは、とか、地球環境とは、とか、国家とは、といったもの言いに引き寄せられるのと同じこと。少し前なら「天下国家」と呼ばれたような水準の言葉やもの言いでしか、オトコやオンナ、も語れなくなっていた、そのこと自体をまず相対化しておかないことには、どんな「論」もすでに現実の前に無効になる。

 フェミニズムに限らず、どうしてそういう大文字の、「天下国家」の水準のもの言いに惹かれてしまったのか、そこをすっ飛ばしたところでもはやどんな「知性」も「教養」もあったものではない、ということに、みんなようやく少しは眼を開き始めた。それは時に「衆愚」と呼ばれ、「ポピュリズム」と蔑まれることも珍しくなかった高度成長期以降の未曾有の「豊かさ」のもたらした高度大衆社会状況での「知性」のありようが、結果として準備したものだ。その一点においては、わがニッポンの〈いま・ここ〉も肯定されてもバチは当たらない、そう思う。

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

 

たま『さんだる』

川の中をオレンジでおなかをふくらませた

女たちがぷかぷか流れてる

ヘビー級のチャンピオンがそれを見つけては

サンドバッグがわりに殴ってる

 80年代的なるもの、というのがあるとして、それは音楽やマンガに最も濃縮されて、ということは誰の目や耳にもわかりやすく、反映されていたのかも知れない。いまさらながら、だけれども。

 もう少しひっくくったもの言いをすれば、例の「サブカルチュア」ということにもなる。でも、それじゃあまりに陳腐なので、そうだな、敢えて「日常」と言い換えようか。え、日常? そう、それくらい大風呂敷でもいいのだ。日常そのものがサブカルチュアの側からゆっくりと覆われてゆく、そんな過程がひとつの臨界点に達した、それが80年代初頭のニッポンの、高度経済成長の「豊かさ」のその後、の風景だったし、何より、それくらいの認識の大転換をひとつしてみないことには、〈いま・ここ〉で起こっているさまざまなグダグダ、われらが暮らしや人生のありようのずいぶん続いているこの何とも言えぬ不透明さってやつは、ことばでとらまえることができないと思うからだ。

 で、たま、である。たま、は多くの場合、あの『イカ天』と共に記憶されているはずだ。ミュージシャンとしては、もう「あの人はいま」状態なのかも知れない。サイトを見ると、2003年11月で解散、とある。http://www.officek.jp/tama/ 四人だったはずが、三人しかクレジットされてないところを見ると、途中で何かあったのだろう。そのへんの詳細についても、きっと詳しい連中が山ほどいるんだろうから、ここでは詮索しない。

 あの、大ヒットした「さよなら人類」の衝撃は、さて、〈いま・ここ〉から改めてどう語ったらいいのか。まずそのへんだ。浅羽通明が「オゾンのダンス」をカラオケで熱唱していた(彼が稀代のオンチであることを念頭に置いて考えられたし)り、当時、少なくともサブカルで主体化してしまった「おたく」第一世代にとって、たま、は確かに福音だった。

 そのへんのことは、すでに語られているのだろうし、あの竹中労を勘違いさせてくらいだからもう証明済み。ここで触れておきたいのは、たま、のプレゼンスにこの初発の時点から、「おんなぎらい」の気配がすでに出ていること、これだ。

 「おんなぎらい」――いまでこそ、ようやく三十代から下あたりの世代のニッポンの若い衆にはっきり見てとれるようになった、その症状が先行的に出ていた。

 性的存在としての自分、がまずもってうとましい、そんな感覚。それは、たとえばモダンチョキチョキズならば、「ぼくらの恋は養殖されて/色もなければ味もない」と歌ったような気分でもある。あれは確か、「海の生物」だっけか。流れにさからうことなく漂ってゆれるばかり、というこの認識は、ニヒリズムというほど輪郭確かなものでもなく、穏やかな風景としての終末感覚、というようなものだ。「デカい一発」、への待望。それはまた、さねよしいさこ、や、谷山浩子など当時の同時代の「サブカル」寄りの表現の中に、決して顕示的にではなく、本当に同時代の空気の中でだけ察知されるようなありようで確かに仕込まれていた、そんなものだ。

 デタッチメントの遍在。それは外界に対する距離だけでなく、自分の内面、少なくとも身体と密接にからんだ心理の領域に対しても客観視してしまうことも含んでいたらしい。

 テレビの画面に映し出された動く、たま、を見たときも、ああ、こいつら、オンナのコと一緒にいても、どこかでぞっとするほど「ココロのない」感じ、を察知させてたりするんだろうなあ、と感じた。それは、自分の中の「オバサン」の部分、で反応していたようなもので、何より、そんな部分を抱え込んでいるということ自体、この「おんなぎらい」の資質にあてはまっていることに他ならないのだけれども、でも敢えてまた言えば、当時すでに「共感」というやつもまた、そのように微妙にめんどくさく、でしか、同時代の中で宿れないようになっていたらしい。

 歌詞から意味を剥奪してゆくことは、たとえば桑田佳祐サザンオールスターズがやってのけたことだったし、爆風スランプにせよ何にせよ、当時の気分としてひとつ確実にあった。意味を速度で、生身で絞り出す速度によってひきちぎってゆこうとする、それは50年代のアメリカならばロックンロールという形に結晶したかも知れないような、身体のありようの切実さを時代の状況の中で回復しようとする、無意識の領域も含めた試み、ではあったと思う。

 個人的な記憶をひとつ。早稲田の大隈裏の芝居小屋で、生ギター一本で芝居に音楽をつけていたオトコが、突然そんな歌をつくりだした。曲想自体はきれいなもので、そういう才能のない自分でさえも、いい曲だな、と感じるようなシンプルなものだったけれども、そこに乗せられた歌詞の全くの意味のなさ、が、逆にそのメロディ自体に宿る何ものか、をきわだたせるような効果があった。「ウニの一生」と題されたその奇妙な曲は、おそらく今でも覚えている者が結構いるはずだ。

 空虚であること、意味からひきはがされてあることが、かえってある種の意味づけを容易に受け入れられる条件になり得ること。自らもまたそのように意味から遠く、意味の縛りから逃れようとする構えを見せることで、まわりの想いをいっぱいに吸い込んでふくれあがることもできる、というある種の確信。

 「アイドル」というのも、実はそんな存在だったのだと思う。意味から逃れる方向性が、たま、などとは全く逆のベクトルで、つまり「定型」の意味づけを迷うことなく一直線にやってのける身振りによって、ということだけれども、「ベタ」であること、「お約束」通りのありようを示すこと、が、予期せぬ同時代の無意識を吸着させてゆく媒体になってゆく。

 こども、童心、遊び、自由……ランダムに想起される単語やもの言いを羅列してみても、それらの関連性自体、リニアーなものではない。言わば絵画的な、詩的な文脈でそれらの要素が関連づけられることが約束されている。竹中労があのように激しく反応してしまったのも、大正アナキズム出自のそんな「アート」気分、もう少していねいに言えば絵画や詩との関係がまだしっかりあり得たような段階でのそれと、共鳴してしまったからだと思う。

 「さよなら人類」に漂う「おんな」の無機質さ、が実はじわっ、と効いてきた。「あの子」という言い方で指し示されるそれは、冒頭から二酸化炭素を吐き出して、あの子が呼吸をしているよ/曇天模様の空の下、つぼみのように揺れながら」と表現されるような、モティーフとしても主要なものだけれども、言うまでもなく植物的な、すでに身体性を奪われたところで想定されている。植物、鉱物、天体……生きものとして、ニンゲンとしてよりもむしろ、そんな有機物と無機物のあわいに位置するような微妙な立ち位置と、そんな自分という感覚。そして、最後に砕け散った「あの子」の「かけら」は「見つからない」まま。なのに、そのことに対して浪漫的に詠嘆したりという気配は、ひとまず薄い。ただ、穏やかに微笑して傍観しているだけ、そんな感じなのだ。

 その後の、たま、というやつを、聞き書きしてみたい、と思う。彼らが「失われた十年」を経由して、〈いま・ここ〉をどのように眺め、生きているのか。それはあの竹中労の“善き勘違い”に対する遅ればせながらの応答、にもなるはずだからだ。 

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さんだる

さんだる