柳田國男 『青年と学問』

そうして現在この我々の目前に、政治と名づけて若干の或る個人の考えが、国民全体の共同生活の方向をきめること、またはこれをきめうる地位に立つ者を指定する選挙という仕事、あるいは経済行為と名づけてなるべく簡単な方法をもって、楽に自分自分に都合よき生活をして行こうという計画など、およそ人間が怒ったり喜んだり笑ったり奔走したりするこの世の中の現象は、ことごとく今我々の学んでいる歴史というものの引き続きであることを、一方にはまたそういう深い意味のあることを知らずに、なんとなく毎日我々が活動しているのが、その瞬間を過ぎるとすぐに「歴史」となって、永く後代何百千年の同国人に、それぞれの影響を与えるものだということを、はっきりと我々に感じさせるのが、この学問の本来の趣旨であった。

 とりあえず、このへんから始めるのがいいかな、というわけで、やはり、柳田國男である。

 柳田國男。日本における民俗学の枠組みをこさえた先達。しちめんどくさいこと抜きにして、なおかつ思いっきり端折ってたとえて言えば、マンガ界における手塚治虫、アニメ界における宮崎駿、みたいなものだ。異論は山ほどあるだろうが、この場では認めない。

 学問を一からこさえる、というのが果たしてどういう事業だったのか。今となってはそれ自体がもう、何のことやら、だろうが、とにかくひとつの学問の守備範囲から対象、方法などもさることながら、何よりもその趣旨に共感する仲間を全国から募って組織を立ち上げた、オルガナイザーとしての手腕がその本質。そう、「政治」なのだ、彼の学問は。他でもない、彼自身がそう言っている。もちろん、今ある「政治」学、などよりずっと意味が広く、深く、かつだからこそとりとめのないものでもあること、言うまでもない。

せっかく百科の学は精透の域に達しても、全体の組織綜合の学問というものが欠けている。そんな学問があるものかと怪しむ人もあるか知らぬが、たしかになくてはならぬので、その証拠にはげんに放任してあるから調和ができぬのである。久しい昔から現在に至るまで、「政治」という漠然たる語で、暗示せられている一つの学問がそれに該当するのである。

 民俗学とは、日本に宿った民俗学とは、そういうとんでもない射程距離を持っていた。少なくとも、その言い出しっぺ柳田國男の想定した段階では。

 もとはというと、東京帝國大学を出た明治政府の内務官僚である。今風に言えば、東大出の高級官僚。貴族院(というのは、つまり今の参議院)書記官長までやって、思うところあって四十代になって官を辞し、その後ずっと民間の学者&もの書きとして生きた。またもや今どきならばフリーランスの評論家、ないしは作家というところ。もちろん、時代も状況もまるで違っているのだけれども。

 その彼の、これは講演集である。あちこちで求められてしゃべってまわっていた、その講演草稿をまとめたもの。時代は1920年代半ばから後半、というから大正末から昭和の初め。見事に戦前、今から80年ばかり昔だ。相手は主として、小学校の教員や地元教育会の有志といったところ。これは彼が組織としての民俗学を考える時に、その会員として真っ先に想定された層でもある。

 だから、きわめて調子が高い。煽ってアジっている。学問は世のため人のため、役に立つものなのだ、だから自分ひとりの利害や損得、出世や栄達のためでなく、勉強したくてもできない同胞になりかわってやる気概を持とうじゃないか、借り物のことばでつむがれた今の歴史ではない、ほんとに誰もが納得できるそれぞれの体験に根ざしたほんとうの歴史のための学問、つまりはこの民俗学を!……とまあ、一部始終語りっ放し。何十年も前のものなのに、不思議なことにいつ読んでもこれ、ひきこまれる。その気にさせられる。

 で、こんな壮大かつ遠大な志で立ち上げられた民俗学が、その後数十年でさて、どれだけ腐り果てて役立たずになってしまったのか、については、また別の大いなるお話、であります。

 ……あ、忘れてた。岩波文庫版の神島二郎の解説がこれ、絶品。凡百の民俗学についての解説なんざ蹴散らすデキ。思えばこの御仁も、丸山真男の弟子でいながら最晩年の柳田門下、という、文句なしの外道だった。

■初版 1928年 日本青年館

青年と学問 (岩波文庫 青 138-2)

青年と学問 (岩波文庫 青 138-2)