平岡正明『ボディ&ソウル』

知性はその低次の段階では二枚目としてあらわれ、やがて発展して三枚目にいたる。ついに最高の発展段階として実現するものは無手勝流であろう。

 もうから平岡正明かよ、と呆れる身近な誰それの顔つきが、この上なく具体的に見える。見えるが、知ったことか。ひるまない。そう、もうから出すよ、平岡正明を。

 いまや圧倒的に忘れられている。いっそ潔いくらいだ。けれどもこの御仁、かつては間違いなく売れっこライターのひとりだったし、いや、それ以上に確実にある影響力を同時代の広がりの中に持ち得た、希有の才能だったのだからして。

 かくいうあたしが、そういう“信者”のひとりだったかも知れない。年格好からすればいささか出遅れ、世代的にはほんとの信者(団塊の世代半ばからあと、実は団塊直後くらいがその中核だったと思われ)のストライクゾーンからはかなりズレたところにいたことになるが、それでもその書いたものから受けた恩恵は正直、計り知れない。柳田國男の次にいきなり出てきちまうのも、理由があるのだ、あたし的には。

 無慮数十冊の著作をすでに世に出している。そのほとんど全てが今や古本市場でしかお目にかかれず、それどころかロクに古本屋の目録にも記載されず、ゆえにもう二束三文の市場価値しかない。だからこうやってあたしごときが何とか救おうとするしかない。

 特にここ十年あまりはまさに同じネタをしつこく反復、それってもう何度も聞いたよ、と言いたくなるような次第だけれども、でも、これはこれである知性の「老い」方を考える上で、山口昌男などと共に非常に興味深い事例になっていたりする。ついでにつけ加えるなら、それが単なる耄碌というわけでもなく、なんというか、古典落語を何度も語り直してゆく中にそこはかとなく宿ってきちまうアウラ、とでも言うようなものが、確かに漂っているから始末が悪い。もちろん、そんな愉しみを味わえるこちら側自体、すでに絶滅確定品種なのだろうけれども。

 あまたある著作の中で、平岡正明のうまみをすんなり味わおうと思うのなら、この『ボディ&ソウル』などから入るのが、案外いいのだと思う。山口百恵でもなく、極真空手でもなく、もちろん最近ちみっと提灯のついたチャーリー・パーカーやマルコムX、60年代ジャズ喫茶談義などでもなく、間違いなく「左翼」が「教養」の重要な一環だった時代を後ろ盾にして初めて十全に味わい読み尽くし得る内実を持った、ことば本来の意味での民俗資料、同時代を省みるためのテキストとして。

 身体を伴った文章、というのが具体的にあり得る、そのことをあからさまに教えてくれた。最も初期の平岡正明というと、かの『赤い風船』だの『地獄系21』だの、才気煥発、縦横無尽な左翼丸出しアジテーション論文が主体なのだが、じきにそこからグッと「場」に就き始めて、本来の才能がはっきり見えてくるようになる。当時は「ルポ」というもの言いはまだそれほど一般的でなく、「ノンフィクション」というのも同様に未だし、の段階。「トップ屋」という蔑称がようやく人口に膾炙し始めたくらいの頃に、あら不思議、そんな「場」に就いた身体ある文体(妙なもの言いになっちまうが)がひょい、と宿っちまった、そんな感じなのだ。

 ここに収録されている「反抗気分に浸透した初期吉本の戦闘性」と題された一文など、その見本。1959年11月27日、全学連の国会突入三日前に読了したことが裏表紙に書き込まれてある一冊の本、吉本隆明『芸術的抵抗と挫折』から書き起こし、当時の自分と自分をめぐる微細な状況をゆったりと描写し、友人Eの部屋からその父親が社会党員で板橋区議だったこと、さらにそのEをオルグしようとするIという共産党員のことなどを思い出話風に語って聞かせながら、そのEの部屋(自宅だから「細長い八畳洋間」という、当時としてはかなり恵まれた空間)が「文学少年たちの屯所であり、喫煙室だった」ことを明記、そして次にこうスパッ、と切り出す、ああ、その間のよさよ。

 それから半年後、人にかくれて煙草を吸ったり、ランボーやサドを読んで圧倒されていた文学少年たちが、大学に入るとともに、レッキとしたトロツキストになる。ヨヨギ共産党反革命と正面からあびせかけるようになった。

 時代、というものをひと筆で切り取ってしまえることが可能なこと。そのような才能が介在して、民俗資料にもまた「質」が問われるようになること。そんなことを平岡正明が教えてくれた。

 吉本隆明の影響はあったか? あった。もしかすると初代自立小僧は俺だったかもしれないくらい、あった。(…)奥付をみると、一九五九年二月二五日第一刷のもので、つまり初版だ。定価三五〇円とある。買った場所は池袋東口の新栄堂だ。この記憶にはまちがいない。谷川雁の『原点が存在する』を買ったのは西口の芳林堂で、この店でくれるおまけの布製のしおりがよかった。吉本隆明の本は未来社刊で版を重ねても装釘は同じだったが、谷川雁の弘文堂初版本は、表紙にカンテラを照らして鉱内労働に向う鉱夫を描いた木版画を使ったものでなかなかすてきだ。

 この時以来、吉本隆明谷川雁とのちがいは、俺には池袋東口と西口ほどにもちがう! これは大変なちがいであって、いまだに極真会館とパルコほどにも池袋の両サイドはちがう!

 ニヤッ、とするところ、だったのだろう、かつては。吉本と雁、極真とパルコ、をひと重ねにして貫いてみせる、それがまさにセンスであり「芸」でもあった。でも、今やその背景からていねいに、まさに古文の解釈をいちいちしてみせるように説明しないとわからなくなっている、それが2007年の〈いま・ここ〉であるのも、また確かだ。

 それでも、だ。この平岡正明の「芸」は滅びない。滅びさせない。日本語という母語の広がりの中で、確かにそういう「芸」はあり得るのだし、これからもあり得るべきだと思うからだ。そして、民俗学者の「読み」とは、そんな依怙地な信心と貼り合わせにかろうじて成り立っていたりする。

 ちなみにこの本、平岡正明の経歴においては、ちょうど極真空手に入れあげ始めていた時期、「運動」としてはポナペや西サモアに実際に足運ぶようになっていた頃にあたる。朝倉喬司船戸与一など、70年代出版社系週刊誌ジャーナリズムを底辺から支えた屈指の「現場」派が周辺に集まって、本来きわめてブッキッシュでテキスト主義者のはずの平岡正明の「身体」を刺激し、鼓舞するような、いいめぐりあわせになっていた頃だ。論文(もちろん学術論文、という意味ではなく「左翼」「教養」デフォの時代における語義の)集として初期~中期平岡正明の到達点だと思う『南方侵略論』や、

 

南方侵略論 (1975年)

 

当時、四谷のスナック「ホワイト」でやっていたDJ(というか、トークライブ)の、これまた希有な同時代記録『一番電車まで』など、

 

 

おのれの「身体」に覚醒し始めたもの書きとしての平岡正明を知るには好適な本は他にもあるけれども、これまた改めてということで。

■初版 1981年 秀英書房

はまぞう、に書影も記録もなし・゚・(つД`)・゚・ )

 

ボディ&ソウル (1981年)

ボディ&ソウル (1981年)