谷川雁 「びろう樹の下の死時計」


はじめ私は道ばたの草むらにつないである牛の傍をすりぬけたとき、その牛がまじまじと私をみつめるのに閉口した。「内地」ならば、ふてくされて知らぬ顔の半兵衛をきめこむのを得意としているこの獣がゆっくりとみつめる大きな眼には、なにかお互いの寂寥感を媒介とした会話の可能性みたいなものが感じられて、狐でも狸でもかまわない、生ける物と交渉をもてるものなら、「化かされる」という形式でもよいから招きよせたいという気になるのだった。昔の妖怪譚などはこんな孤島や森に住む人たちが孤独をまぎらすためにむしろ進んで「化けてほしい」と願う欲求の方に相当の比重をかけて考えてよいのではあるまいかと思うほどである。

 「南島」はずっと敷居が高かった。いまもって高い。そもそも、嘘でも民俗学をかじっておいてそのように「南島」に距離を置くなど、当の民俗学自体が溶解し果てた昨今はいざ知らず、まだ存分に「思想」が活き、その懐で民俗学もまた不幸な延命を始めていた30年前においては、その態度自体で外道確定。あり得ない話だった。それは少し後になって、村井紀などが「南島」イデオロギーを言説化してゆくようになるまで、自分の裡にわだかまっているものだった。ある時期以降、「民俗学にはもう関わりたくない」とつぶやき、仄聞するところでは「○○クンたちに任せる」と冗談めかしてつけ加えた、とも言われる村井紀とその仕事には、その程度に恩義を、ひそかに感じている。

 60年代始め、戦後の「南島」研究が軌道に乗り始めた時期にそれらの島々に赴いた者たちの多くは、「日本」の「古層」を探しに行くという戦前以来のモティベーションをベースに、しかし同時にそこに、「戦後」の言語空間ならではの新たなトッピングを施してもいた。その人気のアイテムのひとつが「縄文」だった。だが、そのことの意味は、当の「南島」研究の自他共に認める本隊だった民俗学文化人類学の界隈において、未だうまく対象化されていないように思う。「古層」や「エトノス」(このもの言いの一時期のもてはやされ方それ自体、すでに正しく「歴史」だ) にうっかり惹かれてしまうような性癖が、にわかに「縄文」にも共鳴するようになり始めていた。もちろん発信源は、たとえば岡本太郎であり、彼の言説を増幅してゆく仕掛けを獲得するようになっていた情報環境だったわけだが、そのような時代、そのような〈いま・ここ〉にその頃、民俗学文化人類学も、そして「南島」も包摂されていたこと、その認識を介してもう一度、「南島」言説というのは洗い直される必要がある。

 で、谷川雁が出てくる。あたし的には、だ。なのに、谷川雁の仕事が「南島」研究の正統たちの中でまともに言及されたものを、ほとんど見たことがないのだ。「南島」研究の正史においてその痕跡は、吉本隆明はもちろん、おそらく島尾敏雄などよりもまだ、薄い。このあたりの遠近法というか、「思想」「論壇」系ジャーナリズムの当時の環境における固有名詞の位相というのも、あり得べき「現代民俗学」の射程内におさめられるはずのものだ。

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 「びろう樹の下の死時計」は、『中央公論』1959年8月号が初出。昭和34年、あたしの生まれた五ヶ月ばかり後だ。4年後、『工作者宣言』に所収。現代思潮社版のものは、何度か装丁を変えて再版されているけれども、パッケージとしては『ドキュメント日本人』のシリーズに収録された際のものが、やはり抜群に納まりがいい。谷川健一の解説ひとつがあるだけでも値打ちもの。「無告の民」というもの言いは今なお、素敵なものだと思っているが、その内実を堂々、朗々とマニフェストする調子は、好き嫌いを、そして時代のつき具合を棚上げしてなお、いい水準だ。何より、このシリーズ七巻「無告の民」に収録されている文章の多くが書き下ろしであり、そしてそれらの中からこの解説は言及していても、なぜか「びろう樹の下の死時計」についてはものの見事に何も触れていない。だが、それはむしろ、雁のことばによる「南島」の〈リアル〉の造形力について、兄健一が編者としてこの一巻を編む段において、あらかじめ認めていたということの証しなのだと思う。

もはや疑う余地はなかった。島の生活の起源は古代のかなり奥深い時期にまでさかのぼることができる。そしてこのいまだに一坪の水田もない島でもっとも重要な祭が稲祭であることはいえ、ほとんど縄文と接続するかもしれない古式の感情が保たれているのだ。(中略)あの怪奇と沈黙が重なりあった縄文土器の装飾性は、この島にみられるような孤独と不毛に向いつづけたあげく生みだされたものであることを私は信じるにいたった。おそらく稲作の伝来によって人々がほんの薄皮一枚だけ飢えから遠ざかり、湿潤な低地での強度な集団生活に編みこまれたとき、突然の上昇にもとづく緊張の緩和が独立不羈なるもののはてしない墜落をさそいだしたのであろう。

 下部構造と上部構造、生産様式と文化、といったかつての大学の人文系でそれこそ耳タコに繰り返され、否応なしに刷り込まれもしてきた図式のあれこれが、しかし、わずかこれだけのことばによってにわかに生き生きし始めたりする不思議。「詩人」であること、その分際から繰り出され、操られることばがそのように情報環境を超え、結果として時空をもふと超えたりすることの愉快。「文学的な衝動を日本民俗学への衝動へと転化させた柳田、自分の情感を民俗学とは別に短歌に託した折口、農漁民の生まの声を整序せずに造形した宮本」という、解説中の谷川健一の簡潔にして的確な批評の視点は、その延長線上に弟谷川雁のことばを想定していたものと考えるのは、さて、こちらの深読みに過ぎるだろうか。

工作者宣言 (1959年) (中央公論文庫)

工作者宣言 (1959年) (中央公論文庫)