片岡義男『10セントの意識革命』

 僕が知っている日本は、戦後からだ。しかし、社会的なつながりを多少とも持った上での体験は、高度成長の急坂の途中あたりからだ。戦前や大正、そしてそれ以前について、僕はほとんど何も知らない。

 なにげに片岡義男がすごいことになってる、ってのは以前から、それも結構あちこちで言っていることだ。けれども、どういうわけか世間はあまりそうは感じていないらしい。それほど、すでに片岡義男という固有名詞は「遠い」ものになっているのか。彼の名前をもてはやした時代との距離感と共に、すでに押し流されてしまっているということなのか。

 でも、彼はきちんと自分の仕事をしている。地味で目立たないけれども、着実に。90年代の後半、それこそ「失われた10年」などと言われてしまった時期の中ほどあたりから、彼は間違いなく「ニッポン」にもう一度邂逅するような道行きを始めている。知らない? だったらそれはかなり不幸だ。少なくとも、今のこのニッポンの〈いま・ここ〉を呼吸せざるを得ない活字読みの習い性にとっては。

 実現したものを、幸せと呼びたければ、そう呼んでもいい。そしてこのような自由を、少なくとも建前としては誰もが自分の意志で選ぶことのできる社会は、民主社会でなければならない。太平洋戦争に大敗したあと、アメリカからあたえられたものとして、あるいはどこからともかく目の前にあらわれた次のものとして、このような民主と自由のなかへ、日本の人たちも入っていくこととなった。

 

 それから五十年をへて、彼らの手に入ったのは、大衆としての自由だ。自分が大量生産したものを自ら大量に消費する大衆、つまり自分たちが消費し得るものしか生産し得ない大衆となって初めて、大衆としての自由を日本の人たちは手にした。自由のために闘うことは一度もなかったが、大衆消費社会を作る作業への加担は、存分におこなった。

 原節子やら何やら、映画を介して「戦後」の、高度経済成長期の「ニッポン」を「発見」してゆく一連の仕事、『彼女が演じた役』(1994年 早川書房)、『映画を書く』(1996年 KKベストセラーズ)、『映画の中の昭和30年代』(2007年 草思社)などは、橋本治の『完本チャンバラ時代劇講座』(1986年 徳間書店竹中労の『聞書アラカン一代』(1976年 白川書院)などと比肩し得る、日本語を母語とした広がりの中で形になった限りでの、映画というサブカルチュアを素材にした良質の「歴史」書になっている。近代ブンガクの呪縛から闊達に遠ざかることを奇しくも自分のものにしてしまった、その意味でうっかりと「国際標準」に接近できてしまった、そんな知性たちの仕事。

 でも、それ以前から片岡義男ってのは、そんな知性、ではあった。はるかずっと昔から。その証拠のひとつが、ほれ、この『十セントの意識革命』。犀のマークの晶文社が本気でまぶしかった時代の珠玉の一冊。

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 確か、大学に入って間もない頃だった、と記憶する。最初に抱いた印象は、どうやらこの書き手にとっては「日常」というやつが、おそらくこちらが見えているものとは違う風に見えているらしい、ということだった。もう少しほどいて言えば、それまでの「戦後」のあたりまえの装置の内側から見る、見せられていた風景とはまた別の、そんな「日常」。そしてそれは一見「アメリカ」というフィルターを介して像を結ぶような、その限りでそちらの方こそニセモノであると当時の環境では思いがちな、思わされがちなものだったりもしたのだが、でも、ならばなぜそのニセモノの方に確かにココロ惹かれている自分があったのか、そのあたりのことは当時、まだうまく自分で振り返って考えることができなかった。

ネッド・ポルスキーの『ハスラーなんて本を紹介しながら、プールバーのハスラーの生態について語る文章も混じっていた。アメリ社会学エスノグラフィーのひとつ。実物はもっと後、実際にアメリカの学生街の古本屋で仕入れてきた雑本の中から見つけたが、片岡義男がこれに言及していたことについて改めて気づいたのは、実物を手に入れてからのことだった。身の丈の〈リアル〉がそのように、普通の人たちにとってのふだんの読みものとして読まれている、ということの衝撃。○○学、などといういけ好かない渡世に首突っ込むことになるなどまだ思ってもいなかった頃、それでもそれは「日常」とことばの関係がそのように密接になっている情報環境のありよう、というやつに気づかせてくれる触媒にもなった。

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 映画やバイクやサーフィンやレコードや……ええい、とにかく何でもいい、そんな間違いなく身のまわりにある「もの」や「こと」をそのまま臆せずことばにしてゆけばいいこと。その連なり、積み重ねの向こう側に「社会」や「歴史」や「文化」ってやつは必ず姿を現わしてきてくれること、届くこと。それがいかに「戦後」のあたりまえだった当時の作法とずれたものであっても、他ならぬ自分自身が日々生きている「日常」とは、すでにそのような「もの」や「こと」で否応なしに充ち満ちている、そんなものになっている、ということを正しく思い知る糸口のひとつになったのだ、片岡義男の書いたものは。

 「赤さびだらけの自動車への共感」と題された一文は、大衆消費社会の真っ只中でどのように難儀をしのぎながら、世界と自分との緊張感を失わないようにしながら誠実に、そして欲張りにも美しく(!)生きてゆくことが可能か、という見果てぬ命題について、〈いま・ここ〉においてもなお、わかりやすく眼の前に示してくれている。『ミステリーマガジン』連載時の誌面での位置づけは知らない。けれども、こういう格調をはらみこんだ文章が平然とそこにあってしまえるような、雑誌というメディアそのものがそんな時代を呼吸していたという証しなのだと思っている。

はまぞう、にも書影なし……(T.T)

 

10セントの意識革命 (1973年)

10セントの意識革命 (1973年)