橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』

完本チャンバラ時代劇講座

完本チャンバラ時代劇講座

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 ひとつの本を繰り返し巻き返し読む、ということも「読む」のひとつであることが、どうも最近は意識されにくくなっているらしい。繰り返す、反復する、というのは何かを「記憶」するためのやり方、という理解もそれには関わってきているような。ということは、ある一定の限られた時間や期間に繰り返し、反復し、という、どこか忙しくあわただしい印象がそこにはつきまとってくる。

 何年も、時には何十年も間をあけて繰り返し「読む」ということだって現実にはあり得るし、そういう「読む」の効果というのも文字/活字とのつきあい方の中には含まれている。それだけ間をあければ、その時間の経緯の中で当の「読む」こちら側もまた変わってきているわけで、その変わった自分が同じ本をもう一度「読む」ことで立ち上がる理解というのは、言うまでもなく新たな発見、それまでと違う現実と出会える可能性も含めてのことになる。もちろん、どんな本でもそういう読み方に耐えるわけでもないらしい。時を経て明らかに古びてしまう、新しい〈いま・ここ〉からの「読み」を引き受けられない、そんな本も確かにある。ただ、同時にその一方で、そういう読み方をすることに平然と耐えてしまう本、というのも、確かに世の中には存在する。

 橋本治のこの本も、まさにそういう一冊。なのだが、世の誰もにとってそういう本、というのでもない。読み手を選んでくる、良くも悪くも。

 それが証拠に橋本治、これまでもかなりの数の本を世に出してきていて、それは「作家」という肩書きの表芸であるはずの小説から評論、エッセイや雑文、対談や講演などから、何だかよくわからないけれどもとにかく若い衆励ます啓蒙書の類(こういうのが実は多い)まで多岐多様にわたり、そのうちのかなりの部分が文庫や新書に再録され、今でもそれなりの数が手に入りやすい形になっているのを見てもわかる通り、書き手として間違いなく一定の固定読者、ファンと言ってもいい層が未だに市場としてあるらしいのだけれども、しかし、こいつは未だに再刊されてもいないし、文庫や新書などのコレクションにも加えられていない。

 けれども、出た当初から自分などは、こりゃ立派な専門書、学術書だ、民俗学の博士号とっととやるべきだ、くらいの見当外れな興奮の仕方をしていた。そしてその興奮は、刊行から30年以上たってしまった今もなお、手にとってページを開くたびに新たなものになる。

 大衆文化論、とひとまず言っていいのだろうが、でも、おそらくそれではうまく紹介したことにならないはずだ。文学史でもありメディア史でもあり、かつまた演劇史でも芸能史でもあるし、もちろん映画史でもあるようなものだ。じゃあ、歴史の本か、と問われると、いやそうでもない、少なくともそういう「歴史」と言って普通に想起されるような歴史とはだいぶ装いも内実も違いがあるはずだし、何よりいわゆる歴史に興味関心があるような本読みにとっては、まずその文体からして面食らうようなものだろうし。作家だから随筆やエッセイ、評論というくくりでもいいのだろうが、それほどゆるいものでもない。かなりガチで本気な、それだけ「読む」側にもある種の気力や集中力、体力も含めて「教養」を要求する、そういう割としんどい中身ではあるのだ、文体その他の見てくれが見てくれだからなかなかそうは思われないだろうけれども。

 「これが通俗だ!」と銘打たれた章があるけれども、おそらくその「通俗」について本腰入れて理詰めで考えようとするとこういうものになった、というあたりが、自分的にはいちばんしっくりするこの本の紹介の仕方になるような気がする、とりあえずは。近代このかたの日本文化の有為転変の、その「通俗」という角度から見た視野がどういうものか。既存の学問なり〈知〉の道具立てからはそれぞれ分割統治されてきていてうまく連携されていない、だからこそ〈いま・ここ〉に生きる読み手の生身にとっては立体的なイメージとしてとらえられることのないままだった、そういう言葉本来の意味での「通俗」目線での「歴史」のありようが期せずしてそこに立ち上がっている。そのことに気づいて素直にびっくりできるかどうか、というのがまず、読み手を選ぶということのハードルになっている。

 もちろん、表題通り時代劇、かつて「ちゃんばら」と呼ばれていたような映画を素材にしてのものだから、そのように読んでいいし、個別具体な固有名詞や作品名、それらにまつわる蘊蓄ディテールの類が随所にきらびやかに散りばめられているから、そのへんを素直に楽しむことができるならそれも幸せなことだろう。橋本治の文体が橋本治を「読む」際の最初の、しかもおそらく最大級の障壁になっている、というのは、橋本治を読んできた者にとってはすでにある種の常識だが、その障壁もこういう題材こういう展開ならば、彼の小説よりははるかにとっつきやすいものに、だからその文体の向こう側にひそんでいる「とんでもない何ものか」の気配も察知しやすいものになっているはずだ。
 
 そういう「とんでもない何ものか」の例。ワンセンテンスでわかりやすくびっくりできるならできるようなもの版。

 夢を現実化させる為の手がかり、それがリアリズムであるというのが芸能の真実です。だから「大衆芸能の流れ」というのはだんだんリアルになってきて、それまでに陽の当たってなかった方面(たとえばエロ)に寄ってきて、最終的にはそれが「現実」になって観客が平気で舞台の上にあがってきちゃう。

 びっくりしない? そうか、ならばテレビについてあっさり語ってみせているこんなのはどうだ。

 そこにカメラを持って行きさえすれば遠くの受像機にそれが映る。テレビ局は何も作らなくていい。だからテレビは芸能でなく「報道」です。報道されたものを受け手が芸能としてとらえるから「芸能」になる、というようなものです。

 メディア論でも新聞学でも、芸能史でも放送史でも、こういう包括の仕方、既存の敷居や仕切りをいきなりすっ飛ばして「わかる」を読み手の裡にいきなり引き出し映し出してみせるような、こういう「芸」こういう「技術」のあり方。何より、それが日本語の文章という媒体を介して可能であること、その証しとしても。

 テレビは基本的に「報道」で「ニュース」でしかないようなものですが、これはテレビ放送の初期にはあまりよく分かられてなかった。何故かというと初期のテレビカメラには機動性と記録性がなかったからです。

 初期のテレビのニュースとはフィルムを使う映画のカメラで収められた「ニュース映画」を編集して、それをテレビカメラにつないで受像機へ送り出すということでした。結局は「ニュース」「報道」であるようなテレビが、その初期にはニュース報道ができなかったのです。

 でも、ニュースを報道できなかったテレビはちゃんと「娯楽」を報道していた。それが「プロレス中継」であり「野球中継」であり「舞台中継」だったりする「実況中継」でした。テレビは世間的には「娯楽」と位置づけられるものを報道していたがために、報道のメディアだとは思われなかったのです。

 テレビは「特殊な娯楽」なんです。観る側の態度如何によってそれが報道か娯楽か教養かを決定されてしまうような「特殊な娯楽」であるようなメディア、どんなものでも娯楽になり得るという、娯楽についての新しい考え方を作り出してしまった、それまでとは全く異質なメディアなんです。

 テレビに芸は必要ありませんから、上手下手はないのです。あるのは「テレビ映りが良いか悪いか」という観る側観られる側の「主観――即ち思い込み」だけです。テレビ以外のメディアには上手下手という「芸の基準」があるからこそ「芸能」ですが、観る側はテレビにもそれがあると思ってしまった。

 情報環境という視点を、社会や歴史、文化といったこれまでの大文字の概念、抽象的な飛び道具としてのそれらのことばやもの言い介して設定されてきたものに対して全面的に補助線として当ててみる、そうすることでおそらく初めて、今われわれが活きているこの現在からの過去の成り立ち、何がどうしてどうなったらどういう具合にこの現在、〈いま・ここ〉に至っているのか、という経緯来歴について立体的に、かつなまなましく「わかる」につなげてゆくことができるはず――そういう「夢」を実現してゆけるためのひとつの可能性を具体的に見せてくれる、そういう「とんでもない何ものか」というのも、もちろん読み取ったっていいのだから。*3

*1:人に向かって紹介しにくい本、というのはある。この場合、それは良い意味でということなのたが、橋本治が書いたもの、それもそのうち最も良いものは概ね大体そういう本、である。

*2:亡くなった……。・゚・(ノД`)・゚・。190129

*3:と、このへんもまた 「もちろん」橋本治調だったりする。