橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』

完本チャンバラ時代劇講座

完本チャンバラ時代劇講座

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 ひとつの本を繰り返し巻き返し読む、ということも「読む」のひとつであることが、どうも最近は意識されにくくなっているらしい。繰り返す、反復する、というのは何かを「記憶」するためのやり方、という理解もそれには関わってきているような。ということは、ある一定の限られた時間や期間に繰り返し、反復し、という、どこか忙しくあわただしい印象がそこにはつきまとってくる。

 何年も、時には何十年も間をあけて繰り返し「読む」ということだって現実にはあり得るし、そういう「読む」の効果というのも文字/活字とのつきあい方の中には含まれている。それだけ間をあければ、その時間の経緯の中で当の「読む」こちら側もまた変わってきているわけで、その変わった自分が同じ本をもう一度「読む」ことで立ち上がる理解というのは、言うまでもなく新たな発見、それまでと違う現実と出会える可能性も含めてのことになる。もちろん、どんな本でもそういう読み方に耐えるわけでもないらしい。時を経て明らかに古びてしまう、新しい〈いま・ここ〉からの「読み」を引き受けられない、そんな本も確かにある。ただ、同時にその一方で、そういう読み方をすることに平然と耐えてしまう本、というのも、確かに世の中には存在する。

 橋本治のこの本も、まさにそういう一冊。なのだが、世の誰もにとってそういう本、というのでもない。読み手を選んでくる、良くも悪くも。

 それが証拠に橋本治、これまでもかなりの数の本を世に出してきていて、それは「作家」という肩書きの表芸であるはずの小説から評論、エッセイや雑文、対談や講演などから、何だかよくわからないけれどもとにかく若い衆励ます啓蒙書の類(こういうのが実は多い)まで多岐多様にわたり、そのうちのかなりの部分が文庫や新書に再録され、今でもそれなりの数が手に入りやすい形になっているのを見てもわかる通り、書き手として間違いなく一定の固定読者、ファンと言ってもいい層が未だに市場としてあるらしいのだけれども、しかし、こいつは未だに再刊されてもいないし、文庫や新書などのコレクションにも加えられていない。

 けれども、出た当初から自分などは、こりゃ立派な専門書、学術書だ、民俗学の博士号とっととやるべきだ、くらいの見当外れな興奮の仕方をしていた。そしてその興奮は、刊行から30年以上たってしまった今もなお、手にとってページを開くたびに新たなものになる。

 大衆文化論、とひとまず言っていいのだろうが、でも、おそらくそれではうまく紹介したことにならないはずだ。文学史でもありメディア史でもあり、かつまた演劇史でも芸能史でもあるし、もちろん映画史でもあるようなものだ。じゃあ、歴史の本か、と問われると、いやそうでもない、少なくともそういう「歴史」と言って普通に想起されるような歴史とはだいぶ装いも内実も違いがあるはずだし、何よりいわゆる歴史に興味関心があるような本読みにとっては、まずその文体からして面食らうようなものだろうし。作家だから随筆やエッセイ、評論というくくりでもいいのだろうが、それほどゆるいものでもない。かなりガチで本気な、それだけ「読む」側にもある種の気力や集中力、体力も含めて「教養」を要求する、そういう割としんどい中身ではあるのだ、文体その他の見てくれが見てくれだからなかなかそうは思われないだろうけれども。

 「これが通俗だ!」と銘打たれた章があるけれども、おそらくその「通俗」について本腰入れて理詰めで考えようとするとこういうものになった、というあたりが、自分的にはいちばんしっくりするこの本の紹介の仕方になるような気がする、とりあえずは。近代このかたの日本文化の有為転変の、その「通俗」という角度から見た視野がどういうものか。既存の学問なり〈知〉の道具立てからはそれぞれ分割統治されてきていてうまく連携されていない、だからこそ〈いま・ここ〉に生きる読み手の生身にとっては立体的なイメージとしてとらえられることのないままだった、そういう言葉本来の意味での「通俗」目線での「歴史」のありようが期せずしてそこに立ち上がっている。そのことに気づいて素直にびっくりできるかどうか、というのがまず、読み手を選ぶということのハードルになっている。

 もちろん、表題通り時代劇、かつて「ちゃんばら」と呼ばれていたような映画を素材にしてのものだから、そのように読んでいいし、個別具体な固有名詞や作品名、それらにまつわる蘊蓄ディテールの類が随所にきらびやかに散りばめられているから、そのへんを素直に楽しむことができるならそれも幸せなことだろう。橋本治の文体が橋本治を「読む」際の最初の、しかもおそらく最大級の障壁になっている、というのは、橋本治を読んできた者にとってはすでにある種の常識だが、その障壁もこういう題材こういう展開ならば、彼の小説よりははるかにとっつきやすいものに、だからその文体の向こう側にひそんでいる「とんでもない何ものか」の気配も察知しやすいものになっているはずだ。
 
 そういう「とんでもない何ものか」の例。ワンセンテンスでわかりやすくびっくりできるならできるようなもの版。

 夢を現実化させる為の手がかり、それがリアリズムであるというのが芸能の真実です。だから「大衆芸能の流れ」というのはだんだんリアルになってきて、それまでに陽の当たってなかった方面(たとえばエロ)に寄ってきて、最終的にはそれが「現実」になって観客が平気で舞台の上にあがってきちゃう。

 びっくりしない? そうか、ならばテレビについてあっさり語ってみせているこんなのはどうだ。

 そこにカメラを持って行きさえすれば遠くの受像機にそれが映る。テレビ局は何も作らなくていい。だからテレビは芸能でなく「報道」です。報道されたものを受け手が芸能としてとらえるから「芸能」になる、というようなものです。

 メディア論でも新聞学でも、芸能史でも放送史でも、こういう包括の仕方、既存の敷居や仕切りをいきなりすっ飛ばして「わかる」を読み手の裡にいきなり引き出し映し出してみせるような、こういう「芸」こういう「技術」のあり方。何より、それが日本語の文章という媒体を介して可能であること、その証しとしても。

 テレビは基本的に「報道」で「ニュース」でしかないようなものですが、これはテレビ放送の初期にはあまりよく分かられてなかった。何故かというと初期のテレビカメラには機動性と記録性がなかったからです。

 初期のテレビのニュースとはフィルムを使う映画のカメラで収められた「ニュース映画」を編集して、それをテレビカメラにつないで受像機へ送り出すということでした。結局は「ニュース」「報道」であるようなテレビが、その初期にはニュース報道ができなかったのです。

 でも、ニュースを報道できなかったテレビはちゃんと「娯楽」を報道していた。それが「プロレス中継」であり「野球中継」であり「舞台中継」だったりする「実況中継」でした。テレビは世間的には「娯楽」と位置づけられるものを報道していたがために、報道のメディアだとは思われなかったのです。

 テレビは「特殊な娯楽」なんです。観る側の態度如何によってそれが報道か娯楽か教養かを決定されてしまうような「特殊な娯楽」であるようなメディア、どんなものでも娯楽になり得るという、娯楽についての新しい考え方を作り出してしまった、それまでとは全く異質なメディアなんです。

 テレビに芸は必要ありませんから、上手下手はないのです。あるのは「テレビ映りが良いか悪いか」という観る側観られる側の「主観――即ち思い込み」だけです。テレビ以外のメディアには上手下手という「芸の基準」があるからこそ「芸能」ですが、観る側はテレビにもそれがあると思ってしまった。

 情報環境という視点を、社会や歴史、文化といったこれまでの大文字の概念、抽象的な飛び道具としてのそれらのことばやもの言い介して設定されてきたものに対して全面的に補助線として当ててみる、そうすることでおそらく初めて、今われわれが活きているこの現在からの過去の成り立ち、何がどうしてどうなったらどういう具合にこの現在、〈いま・ここ〉に至っているのか、という経緯来歴について立体的に、かつなまなましく「わかる」につなげてゆくことができるはず――そういう「夢」を実現してゆけるためのひとつの可能性を具体的に見せてくれる、そういう「とんでもない何ものか」というのも、もちろん読み取ったっていいのだから。*3

*1:人に向かって紹介しにくい本、というのはある。この場合、それは良い意味でということなのたが、橋本治が書いたもの、それもそのうち最も良いものは概ね大体そういう本、である。

*2:亡くなった……。・゚・(ノД`)・゚・。190129

*3:と、このへんもまた 「もちろん」橋本治調だったりする。

源了圓『義理と人情』

 

義理と人情―日本的心情の一考察 (1969年) (中公新書)

義理と人情―日本的心情の一考察 (1969年) (中公新書)

 

 

 新書も文庫も、単にその判型だけの意味にしかならなくなって、中身もまた以前とはまるで違う薄さになっちまった。薄いったって「束」のこっちゃない、中身内容もだ。「単行本」「単著」が新書と同義になってるところもあったりするから、もうこれは「本読む老害」としては、にわかに受け入れるわけにはゆかない。

 それなりに功成り名を遂げた「碩学」(これももう言わなくなった)が、その知識見識見聞その他、惜しみなく駆使して、世間一般その他おおぜいの中の活字読む手癖のついちまった界隈に向けて書くのが新書だった時代の新書は、昨今古本屋の店先でもひと山いくら、いや、今や路面店開いて古本屋すら絶滅危惧種だからネット販売の画面でもヘタすら本体1円から、いくらでも拾えるようになっている。そんな中から、かつてまだこちとらケツの青かった頃の記憶を甦らせるかのように、30年もその上も昔の新書を拾い上げては持ち帰る、そんなことも遠くご当地暮らしの隠居の日々、無聊の慰めの一環としている。

 本書も、そんな一冊。広い意味での思想史・文化史ということになるのだろうが、それにしても「ゆるい」印象は今となっては否めない。しかし、だからと言って軽んじていいかというとそうじゃない。こういう「ゆるい」記述でゆったりと語ってゆくような、そんな新書ならではの「教養」の気配というのも、すでに「歴史」の過程に組み込まれつつあるらしいことを十分に思い知りつつ、なお味わってみる値打ちは十分にある。

 副題は「日本的心情の一考察」。いまどきの博士号持ち当たり前な世代の感覚などからすれば、「こんなのただの個人の感想文ですよね」で一蹴されるかも知れない。いや、たぶんされるだろう、いともあっさりと。註も参考文献も、いずれそういう「論文」の正しい形式は初手から踏まれていない、何を根拠にこんな能書きダラダラ並べとるんだろう、こんなのありがたがってたんだから昔の人文系ってほんとお花畑だったんだね、といった「いまどきのボクたち優秀」言説のルーティンが繰り出されるありさまがありありと見えるし聞こえる。何も驚かない。

 「ただの個人の感想文」――そう、だとしても、それが何か? 敢えて、そう言わねばならない、そう思う。昨今のような日本語環境での「人文社会系」のありさまだからこそ、なおのこと。

私は、義理の問題は、最後的には「義理と人情」の問題として構造的に把握すべきだと思っている。このさい「恥の文化」という規定だけでは、義理・人情の問題の解明は不可能である。もともと外的生活規範であった義理すらが、時には心情化されている。まして義理が生活の場で機能するときのすがたである「義理と人情」は心情的側面をぬきにしては理解されない。そしてこのとき、「恥の文化」という『菊と刀』におけるベネディクトの規定のほかに、「情と共感の文化」という規定を加え、「恥と共感の文化」というコンテキストの下に、義理・人情の問題を考察する必要があると思う。

 本書初版刊行は1969年。R・ベネディクトの『菊と刀』の衝撃が、日本語環境での人文社会系にもたらした余波余震の類の深刻さというのを、改めて思う。思って、そして、ああ、この時期にもなお、とも。だって、この「日本」を「文化」という切り口であっさり切り取ってみせる、その手口自体がそれまで見たことのなかったもので、しかもそれが少し前までの敵国あの鬼畜米英の手によるもので、さらに加えてオンナの書いたもので、ともうそれはそれは「敗戦国」としての戦後を思い知らされる上で大きなきっかけになった一冊。それは後に、中根千枝から何から有象無象玉石混淆ひっくるめての「日本文化論」をゾロゾロ戦後の出版市場に流通させることになったのだが、本書もまたそんな流れの中に生まれた仕事のひとつ、と言っていいだろう。堂々の、そういう「日本文化論」ではあるのだ。

 「義理と人情」という成句に近いもの言いに込められてきた、われら日本人のココロの来歴についてしぶとく、しかしどこまでも自分の手の裡に入れたひらたいことばともの言いとでつづってゆきながら考えようとする。決してひとりよがりではなく、読み手の側に共感を促しながら、その読み手たちの裡に共有されていて、そして書き手の自分にも同じものがあるはずの部分を確かめながら、語られるようにつづられてゆくことばの調子。「教養」というもの言いが、こういう人文系の話法と確かに相伴ないながら世に流通していた頃の、まぎれもないすでに「歴史」の一部に織り込まれつつあるらしいありさま。

日本文化の性格については、いろいろの側面からの規定が可能であろう。しかし、多くの規定の仕方の中でも、とりわけこの「情と共感」の文化という規定は最も有力な規定の一つであろう。この日本分かの情的・共感的正確は、日本の風土に由来しよう。自然との関係が社会における人間関係、またそれを支える心情に発展し、そして文化形成の基礎的パターンとなったと考えられる。

義理は個人の傾向性に反した義務とか、道徳的格律とか、社会的責務という性格をもっていない。「傾向性―義務」が西欧社会の内面道徳の軸であるとすれば、「権利―義務」ということはもやはり西欧社会の他の軸、すなわち外的社会規範の軸であろうが、情的でパーソナルな人間関係において成立する「義理―人情」はそれとも異なる。だとすれば、われわれは「義理と人情」を、西欧的な意味での「公―私」とに置きかえる試みを放棄しなければならない。

西欧と日本、この圧倒的な「比較」の軸の盤石さの気配に嘆息する。そしてそれはおそらく、今も基本的に変わっていないはずなのだが、その「変わっていない」こと自体がもうすでに、〈いま・ここ〉の内側からは自覚できなくなっている。

このように義理という生活規範には、好意を与えた人と好意を受けた人とのあいだの人間関係が長期にわたって存続すること、さらに彼らの所属する社会が閉鎖的な共同体であることが、その成立の基本条件である。

1920年生まれ、大正ネイティヴ世代の著者がおそらく自明の前提としてきて、そして高度経済成長期までの生活経験においても、ほぼ自明であったような「日本」のありようがここにある。そして、それはすでにもう「歴史」の相に織り込まれつつある。そんな前提を改めて、〈いま・ここ〉の自明にしておかないことは、これらかつての「人文系」の「教養」を、その可能性と共に「読む」ことはできなくなっているらしい。

つのだじろう『ばら色の海』『サムライの子』

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 つのだが「サムライの子」を描く前年、1961年1月から7月にかけて同じ『なかよし』誌に連載し、その年の第二回講談社児童漫画賞(現在の講談社漫画賞)を受賞した「ばら色の海」は、横浜のダルマ船に住む水上生活者の子どもたちに取材した作品で、すでにこの段階で彼の「取材」を介した創作作法が現れている。

 「ある日、ぼくは横浜に行き、夕映えの港の停泊する大きな外国の貨物船の間を、いそがしげに働いているダルマ船の群れをみた。その船の中に、ぼくは子供がいるのに気がついた。いったい、あの子たちは、どんな生活をしているんだろう?学校は……? そして、ぼくは横浜にかよった。水上生活の子供たちの学校は、横浜の丘の上、山手町にある「水上学園」だ。ぼくは、職員の宿直室に、先生と一緒に寝、そして子供たちと仲よしになった。学校一のかわいい女の子(?)りよ子ちゃんの家(ダルマ船)へも遊びに行った。」(「あのころの思い出――“あとがき”にかえて」つのだじろう『ばら色の海』所収、朝日ソノラマ、1968年、p.238。)

  この単行本の巻頭に清水慶子(社会学清水幾太郎の妻として当時、翻訳家・評論家として活躍していた)による推薦文が掲載されていて、そこに当時のつのだじろうの颯爽とした新進気鋭ぶりを彷彿させるこんな一節がある。

「今、私は一枚の写真を見ています。それは、つのだじろうさんが美しい人とならんで、大空の斜めに回転展望台の上から笑っている写真です。「私どもこの度結婚いたしました。どうぞよろしく。」と添え書きしてあります。これは、昭和三十六年秋のことです。その秋の彼は、「三冠王」と友人たちにいわれました。新居新築、結婚、そして講談社第二回まんが賞をみごと受賞したからです。彼は、まだ二十五歳でした。」(清水慶子「つのだじろうさんと「ばら色の海」」、つのだ前掲書所収、p.7)

  これに続けて、彼女自身がこの時の選考委員でもあり、つのだの作品を強力に推したことも紹介されているのだが、そのほぼ同じ頃、清水は「日本の子どもを守る会」の「悪書追放運動」の一環としての当時の児童漫画に対する抗議集会に「母親」代表的な立場で参加し、出版社や作家たちに当時の児童漫画に対する不満を投げかけたりしていることなどを考えあわせると、そんな彼女の当時の眼につのだの表現がどうやら圧倒的に素晴らしいものに映ったらしい、そのことの内実や背景など含めて、いろんな意味で興味深い。ちなみに、彼女は1906年生まれで当時すでに55歳、1936年生まれで25歳だったつのだとは30歳の年齢差があったことになる。

 「やはり「ばら色の海」は、当時の少女まんがの分野にさわやかに新風を吹き送った異色の力作だったのです。(…)あの頃も、そして今でも、どうして多くの少女マンガはレベルが低いのでしょう。どれも同じようなグロテスクな大目玉と細い手足をした少女の絵。暗く、さびしく、なげきと涙のそらぞらしいお話。いったい作者たちは、新しい教育で育っている今の少女たちをどう受けとめているのでしょうか。こうした少女ものが氾濫する中で、つのだじろうさんがつぎつぎと描いていった少女まんがは、新鮮でした。」(清水、前掲、pp.7-8)

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サムライの子 児童文学創作シリーズ

サムライの子 児童文学創作シリーズ


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*1: これを書いていた時のしらべもの一部。脚注として反映したけれども、資料的にも、またそこから引きだそうとしている問い的にも備忘的にこちらにも。
king-biscuit.hatenablog.com

*2:つのだじろうの作品は数あれど、これも、そして『サムライの子』もAmazon以下、web上のデータ≒「情報」としてはほとんどひっかかってこない。著作権などの問題というより、ご本人が現在の自分の仕事の履歴として認めたくないところでもあるのだろうか。そのへん含めて、できればいつか知りたいとは思っている。

サトウハチロー『僕の東京地図』

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サトウハチロー―僕の東京地図

サトウハチロー―僕の東京地図

 

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 古書の書評、というのはあまり見たことがない。いや、その筋の趣味人好事家道楽者の界隈には紹介言及ひけらかしな蘊蓄沙汰はそりゃ古来各種取り揃えてあるものの、それらは概ね書評というのでもなくお互い手のこんだマウンティング、こじれた相互認証の手続きをそれぞれ身もだえしながらしちめんどくさく垂れ流しているようなシロモノが多い。つまりそこでは古書は単なるダシでしかないわけで、その臭みが時にどうにも疎ましかったりする。加えて昨今、web環境の進展に伴いそれまでともまた体臭の違う基本フラットでマイルドで清潔で、しかしその分どういうものか無自覚に無礼で不遜で可愛げのない古書いじりの増上慢が横行し始めていたりするのでなおのこと。そもそも書評というのは評する主体、「読む」側の器量が良くも悪くも映し出されちまうおっかない形式のはずなのだが、メディアの舞台でのそれは新刊書に対するブックガイド、それもある時期からこっちはとにかく業界事情や世渡りの思惑まみれで当たり障りのない広告宣伝提灯持ち的役割が主だったせいだろうか、いずれにせよ新刊書でない古書をめがけた書評というのはやはり需要がないということには昔も今も変わりないらしい。

 思い返せば、未だ懲りもせず刊行される新刊書にまともに興味関心を持てなくなっても久しい。ぶっちゃけ今世紀入るあたりからこのかた、あ、こりゃ気力体力のムダかも知れん、と思い切り、もう積極的に新しい本を追いかけられなくなっちまった。その分、手元にためこんじまった古書雑書ゾッキ本その他の紙のボタ山からとっかえひっかえ、いや、それでもまだ新たに少しずつ積み増しもしながらだけれども、いずれためつすがめつ繰り返しめくっては付箋を貼りメモをとり、気が向けばやくたいもない備忘録や断片をあてもなくつづってみたり、てなことばかり宛も目算も特にないまま日々の習い性にしてきているここ十数年。いやいや、なんのこれもまたひとつの現場、紙の意気活字の野戦感覚を磨いてゆく稽古演習の過程と、表立っては口にはせぬがそっとつぶやいて心励まし、またぞろ眼前の山からひとつ抜き出しては持ち慣れた頭陀袋ひとつに収めてさて、今日もまた同じような日々の道行きが始まる。

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 サトウハチローの『僕の東京地図』(1936年 有恒社)は、そんな日々の道行きにつきあってもらっている常連のうちの一冊。初版は昭和11年だから、ざっと80年ほど前の新刊だけれども、なめちゃいけない。未だいつどこから開いてもそのたびに新鮮な発見、枝葉の如く繁ってゆくイメージやとりとめない感興がこの老化著しい脳髄まわりからでさえ惜しげも無く引き出されてくるのははて、ほんとにまったくどうしてなんだ、と不思議がってばかりでもうずいぶんになる。

 戦後、昭和21年に労働文化社から、そしてまた最近2005年にネット武蔵野というという小さな版元から、それぞれ復刻というか同じ書名で出されていたりするが、残念なことに中身が端折られてたり新たに書き足されたとおぼしき部分もあったりで、まあその分行って帰って値打ちは相殺かも知れんのだが、それでもやっぱりここはもとの版、首尾一貫した調子で当時の〈いま・ここ〉、時代の空気がその微粒子のようなものも含めてしっかり締まったおさまり具合になっている元祖が格別。さらに言えば、こちとら手もとの色褪せ朽ちて背表紙あたりなんざ手垢まみれのボロボロになっちまってるこの裸本こそが好ましく、また手になじんでもくれるというもの。なじみの店のオンナのコのようになつかしい。

僕の銀座、君の銀座、あなたの銀座、わたしの銀座。気取っていふならば御身の銀座、わがための銀座。おッかなくいふならば貴様の銀座、小生の銀座。ざッくばらんにお前の銀座、オレの銀座、そなたの銀座、わらはの銀座、主の銀座、わちきの銀座、旦那の銀座、マダムの銀座、若人の銀座、老人の銀座(あゝきりがないきりがない)ことほどさように、われ等の銀座である。

 詩人である。だからかように「うたう」のである。うたいながら、まちを堂々、往くのである。

 流行歌でも童謡でも、戯作めいた随筆でもなじみの食い物屋の宣伝文句でも、もういっそすがすがしいくらいに一貫したリズムと調子でその持ち前の愛嬌と共に押し通して、しかし素朴な「うた」の呂律を手放さない。それでいてどこか知らぬ間に「はなし」にもつむいでつないでゆける、そんなことばのありようがわれらがサトハチの書きものの本領。何も「文体」などという裃つけたもの言い持ち出さずとも、これは立派にひとつの「個性」、輪郭確かな書き手の骨太なたたずまい、彼の書いたものどれもこれもにずん、と貫かれているゆるぎない味わいの源泉なのだ。

「浅草は、僕の第一の故郷だ。ふるさとのなつかしさは、かくべつだ。浅草へ行くと、誰もが(いや待てよ)何でもかんでも僕に會釈する、あいさつする、肩をたたく、迎へてくれる。僕ばかりではあるまい、浅草はさういふところなのだ。

 冒頭、いきなりの浅草、そしてまた浅草。小さい頃から文字通りうろつきまわった盛り場の個別具体、細部のあれこれが、しかしあくまでも彼の身の裡の体験や記憶を介して改めて眼前に開陳されてゆく心地よさ。

 食い物がひとつターミナルになっているのも「健康優良不良少年」サトハチならではだけれども、本拠地浅草で景気をつけて、そこから上野、木場、お茶の水から神保町に四谷、向島へ飛んだと思うと池袋にとって返し、大塚界隈をうろうろする。そして銀座、僕の銀座あなたの銀座にしばらく逗留、夜と昼との相貌の違いなどにも筆を走らせ、牛込に早稲田、小石川から本郷帝大ときて、山の手の新興盛り場新宿はムーランルージュ三越裏、再び四谷あたりから神宮外苑日本橋に蛎殻町、薬研堀からずっとまた下町へ足を向けて月島佃島に八丁堀、再度の上野は動物園に帝室博物館、谷中へ抜けて三崎町から團子坂、千駄木白山巣鴨中里、果ては田端瀧野川まで出かけてゆく。返す刀で靖国神社芝公園、放送局はNHKで麻生十番から品川へとくだって新興大森蒲田の賑わいにも首を突っこむ。このへんから仕切り直し気味に再び伝手と記憶をたどりながら浅草吉原下谷あたりをここはゆっくりこってりぶらつきながら、丸ビル日比谷に帝劇、そして東京駅でめでたく打ち止めという次第。もとは『東京朝日新聞』の連載だったと聞くけれども、なるほどそれぞれひとまとまりはコンパクトで見通し利く範囲で、何より活きの良いまますんなり読めて肩も凝らない。ひとり散歩のそぞろ歩きの、そして時には当時の同時代気分を表象する、彼も好んで使ったあの「行進曲」の速度とテンポで昭和初年、帝都の〈いま・ここ〉がこちとらの身のうちに響きながら、いつしか何かしらの像、具体的なイメージをすらしっかり結び始める。

尾張町近く森永のキヤンデーストア-。そこにはラツピングマシン。譯して自動包装機といふ。チョコレートクリームと板チョコが、自動的に包まれる機械だ。(…) 電車通を越えませう。池田屋本店なる毛皮屋がある、そこに熊がゐる。勿論ハクセイだが、こごみかげんで、歩いてゐる姿だ、背中につくりものの鮭を一匹背負ってゐる。小學讀本で教はッたとほりに、ちゃんと笹の小枝に通してゐる。笹の葉はすッかり枯れてゐる。(…)すぐその先が、丸八ァ銀座のノミトリ粉の松澤八右衛門だ、丸八丸八と覚えてゐて、松澤といふ姓だとは僕もいままでは気がつかなかッた。右のかざり窓には畫帳などがづらりとならび左の方にはこれ又サボテンがマスゲームしてゐる。(…)さて向ふ側だ。愛するカフェーキリンがある、ビールもうまいし、サンドヰツチもうまい、だが、こゝの飾窓の小さい牛のつくりものだけは、裏へ片づけていただけないかしら。その昔浅草のちんやに、牛のはらら子の瓶詰が、かざつてあつたのと、同じ効果を銀ブラ族にあたへると思ふが、いかがでございませうか。

 その頃、たとえば新感覚派などがマジメに本気で目指していたとされる当時のモダン相、都市部の新たな〈リアル〉の速度や猥雑、全方向に喧噪がひしめきあう日常の体感を、できる限り見たまま聴いたまま感じたままに、調律されたことばにおろしてゆく営み。それがこんな形でいともあっさりと、衒いも何もなく無造作に放り出されてあるように見える。才能だの技術だのじゃない、それ以前の「育ち」の違い、生まれてからの日々の過ごし方がどうしようもないまでにその他おおぜいの凡俗とは違っていた、そういう「違い」の否応なさとそれゆえの当時としてはまだちょっとあり得なかった早すぎた「ひとり」のありよう。間違っても当時のブンガクになどそのまますんなり向かうことのなかった天然自然な「表現」への欲求。ああ、今だってもしもこんな具合に書けたら、声に出してうたえたらどれだけ気持ちいいだろう、と素直に憧れのココロを引き出してくれる一冊なのだ。

 忘れてた、この本、装幀も挿絵もなんと横山隆一。文中、とりあげた店などの広告もさしはさまれていて、それも彼の手によるとおぼしきものが混じっている。ある種広告がらみの企画だったのだろうか、そういう事情も含めて「読む」ことの愉しみを満身で受け止めてくれるブツであること、申し添えておきたい。

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京橋の新川位お稲荷さんの多いところはない。酒問屋では大てい一つづつお稲荷さんを持ってゐる。僕が行った時も、寳録稲荷のお祭で、余興數番ありなんていふ書きビラが電柱に貼りつけてあつた。

 福徳、入舟、舟玉、寳録(あ、この下にみんな各々稲荷といふ字がつくんですぞ)もう一寸大きいのに、大栄稲荷といふのがある。新川一の三だ。こゝの神主さんを小平勝次郎といふ。昔なら、父と兄と二人を討たれて、仇討ちに出さふな名だ、名は二枚目だが大分しなびてゐる。これが、木やりの研究家だ。いまは神主をしてゐるが、もとをたゞせば鳶だ。火事の時の筒先きのお職(うれしい名ですな)だッたといふから大したものだ。町内の頭だッたのだ。木やりが上手だつたに違いない、それから段々研究にはいつたのだらう、前身仕事師の神主さんなんてものは、さうざらにあるもんぢやない。

 「都市」はうっかりと身の丈を超えちまう仕掛けがそこここに張り巡らされてゆく状態である、てなことをそう言えばもうずいぶん昔、ものを書き始めて間もない頃に生意気に口走ってたような気がする。確かに、ここにはそんな「都市」が、しかし身の丈超える仕掛けの中にそれでも〈いま・ここ〉にしかあり得ない個別具体の確かさで記述へと運ばれてきている。だが、「細部」だの「ディテール」だのといまどきの能書きでくくっちまう野暮はやめとくが吉。喰い物と顔見知りと路上の交わりと、それらを一緒くたに触媒にしながらサトハチの生身の裡から引き出されるさまざまな記憶や思い出の断片が、眼前の音や声、匂いや気配、ことばやもの言いなどをまつわらせながらひたすら紙の上に綾なし渦を巻き、安っぽくも絢爛豪華な千鳥足の道行きとして現前している次第。だから、こんな場面もしっかりと紙の間尺で切り取れる。

「木やりは誰が上手です」と聞いたら、「神田のサギ町のをぢさんでせう」といつた。サテ神田にサギ町なんてあつたかしらと考へたら「佐柄木町の小川光吉さんですよ」と重ねていつてくれた。佐柄木町がサギ町と、こつちへ聞きとれる。昔の口調が、まだ残つてゐるんだと思ふと、一寸うれしくなつた。

 「昔は重いものを動かすのに、木やりがなければ動きませんでしたからな。いまぢや機械を使ふんで、すたりましたよ、白酒柱だてなんてものは歌澤となつて残つてますよ」

 たとえば、あの今和次郎考現学、どこか大正的知性のかったるさを引きずる文章でなく、実はこちらが本領とばかりに欣喜雀躍、ひたすらはしゃぎまわった気配が漂うあんな図版こんな意匠のさまとその並びを脳裏に重ね合わせて映し出しながら、あるいは、かの柳田國男は『明治大正史・世相篇』の東洋文庫版旧字混じりの字ヅラを想起しながら、ひとつ声に出して読んでみようじゃないか。同時代の生身の生きて呼吸していた空気が雰囲気が、うっかりこの21世紀に身を置いちまってるこちとらの身の裡にもまっとうに感得されてくるようなものだからして。そんな意味での「歴史」「叙述」だったりするんだからして。

みなさんのうちで佃島へ行ったとがある人が何人あるでせう。川一つへだてきりなんだが、ここへくるとまるで違ふ。第一匂ひが違ふ。磯臭い匂ひがする。東京といふより近縣の漁師町の匂ひだ。いたづらに臭い匂ひぢやない。なつかしい匂ひだ。僕はアセチリンガスの匂ひを嗅ぐとおふくろを思ひ出すタチだが、この匂ひもをばさん位は思ひ出す匂ひだ。

 ほぼ煮崩れしちまってるいまどきの古書市場でもまずは4ケタ後半、美本ならどうやら5ケタ越えの値も未だについちまうらしいシロモノなのは、そういうことばの魅力、うたをはらんだ文体の射程を評価する視線が市場に少しでも残っている証しなんだと思いなして、そうか善哉善哉、ならばいざとなったらこのボロい一冊も叩き売りゃまた小遣いくらいにゃなるか、とまあ、そういう信頼もまた宿してくれるのが、これら古書雑書やくたいもない紙の書物の今なお健気で可愛いところなのであります。

 浅草その他、昭和初年のモダニズム、当時前景化していった大衆社会化とそれに伴う新中間層ベースな都市生活文化への興味関心が、改めて若い衆世代を中心に盛り上がってきているような日本語環境での人文系ガクモン沙汰の昨今、この一冊も主に浅草がらみで引き合いに出されることもあるけれども、いまどきのもの言いでの「サブカル」がらみの読み方味わい方だとどうしてもどこかひとつ薬味がきかぬ憾みもある。いや、それもまたひとつの「研究」視線、「業績」縛りないまどきの知性の習い性なのかも知れないけれども、そしてまた「細部」「ディテール」の類を称揚してみせる身振りそのものもそのような習い性と無関係のわけもないはずなのだけれども、長年のサトハチ贔屓、その「うた」と「はなし」をおのが身ひとつに抑えこんでゆくような生身のありよう、ことばの闊達に、不遜ながらも民俗学的知性の初志の気配を直観的に察知しちまってるこちとらなどからすれば、ああ、もったいねえなあ、とちょいとしかめっ面のひとつもしちまう時もあったりするのだ。 

 

 

*1:もとはこちらの原稿。自分的にはちょっと気に入っているので、こちらのラインナップにも加えてみた。king-biscuit.hatenablog.com

*2:これはネット武蔵野版。

*3:もとはこんなの。

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長谷川伸 『石瓦混淆』

 いつかいつかと思いつつ、棚上げにしていた仕事がそこここに散らばったまんま、気がつけば歳を食っている。なんのことはない、もう半世紀も生きたことになっちまってる。馬齢を重ねて、というもの言いも少しは身にしみる季節。たとえば、長谷川伸がいかに民俗学者であったか、について語ることも、そんな中で気がかりのままになっている大きなネタのひとつだ。

 いまさら何を、かも知れない。おそらくそうだ。でも、ほんとにすげえ、と嘆息するような記述を、紙の上に刻まれた活字の列が質としてはらんでいる凄みは格別。戯曲や小説などについては、それぞれ専門分野の先達がいくらもいるし、何よりじかに教えを受けたお弟子筋の面々が今もなおご存命、活躍中。いくら厚顔無恥が通行手形の身でも、筋違いの民俗学者などの出る幕でもないだろう。

 ただし、だ。その書きつけだけはちょっとひとこと言わせてもらわねばならない。ノート、雑記、覚え書き……何でもいいのだけれども、彼、長谷川伸の残したそれら断片の記述が、どれだけ滋味にあふれるものになっているのか、については、もっともっときちんと伝わってゆくことばに変換して伝えておかねばならないことだ。いっぱしの日本人として。

 『石瓦混淆』という一冊がある。せきがこんこう、と読むのだろうか。非売品として彼の没後、まわりの人たちが編纂して配ったものらしい。

 この本は先生の奥様が、その間、いろいろの方々から受けられた有形無形の御親切にたいし、何かおかえしがしたいということから生まれたのである。だから、この本の製作にあたっては特に奥様の御希望により、奥様御自身が先生の日誌、メモ、新聞雑誌の切抜き、講演速記などから原稿を選択され、更に御自分で筆写、編集、校正までなさり、自費で出版された。義弟にあたられる新小説社社長長島源四郎史が印刷所関係を手伝われ、(…) それは極くわずかなことでほとんどが奥様の手によって成ったといっていい。

 それまでも、『耳を掻きつつ』『材料ぶくろ』など、題名そのものがなかなか粋な味わいのそれら書きつけ集は出ていて、それは特に戦後、晩年になって一気に続けて刊行されている事情が、奥付その他からよくわかる。こういうディテールに富んだ「小さなことば」の記述を愉しんで眼にするような読者が、「敗戦」によっておそらく解き放たれたのだろう。それ自体がまた、忘れられた「戦後」の効果のひとつ、だったはずだ。

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中に数葉、別刷頁で写真がさしはさまれている。そのひとつ、「江ノ島・鎌倉園遊会」と付記された古い写真に写る“新コ”。海水浴場が正しく「玄人」の興行に委ねられていた時代、地元の地回りと組んで新聞社もまたそのような玄人の一員だった頃の、客気横溢する一枚。中央はなるほど長谷川伸だが、あとのふたりは、平山蘆江と伊藤みはるだろうか。左がみはる、右が蘆江と見たが、違っていたらご容赦。ただ、他にもこの三人組の写真は残されていて、今で言う「突撃ルポ」を敢行、上野駅前でおのぼりさんを装ったり、年の瀬の夜泣き蕎麦屋に身をやつしたり、といったやんちゃをやらかしているのを見ても、おそらく間違っていないかと。

 『私眼抄』の中、「机上の荷駄」という一章にはことさら思い入れがあるらしい。文語体である。口語体で書くより書きやすかった、と言っている。確かに、口語体のものよりも“新コ”の体臭やぬくもりがそこに間近に感じられる。あるいは、「明治」を生きた身体の、とか。

 文字本来、書きことば自体がもともと宿している、そんな力。落ち着いた、しかし確かに躍動感もたたえた「読み」を引き出してくれるしみついたような黒さの文字、また文字。日本語で「読む」ことの愉快をおそらく誰もが感じることのできるテキスト、である。

 イカサマは関東語にて、インチキは上方語なりと云ふ。東西共通となりしは大正以前なるべし。「隠語輯覧」(京都府警察編・大正四年刊)には、同義のものとして収録しあり。

 『戦争論』に収録されているだろう、いわゆる「慰安婦」のことをつづった長谷川伸のテキストを小林よしのりに紹介したことがある。「事実残存抄」から抜き出したものだが、“おはなし”と〈リアル〉の間をどのように媒介してゆくのがまっとうなのか、という時の主体の態度というやつを、過不足なく示してくれていることが、何より見事なのだ。“おはなし”に埋没して酔うだけでなく、そこから瞬時に身をひるがえして距離も置く。コミットメントとデタッチメント。でも、そんなこざかしい知性の小手先の技にとどまらないのは伸コ、やはりただものではない。人がこの世に生きてあること、生きてゆくことの多様さ、とりとめなさ、敢えて雑駁に言えば「何でもあり」の〈リアル〉について、あきらめながら凝視して、しかし決して絶望も嘆息もしない、そんな強靱さ。ここははっきり、「タフ」、と横文字由来のことばで評しても、叱られないはずだ。

 明治三十年(一八九七年)ごろ、「探偵實話岩井松三郎」なるもの都新聞に連載さる。筆者は橋本埋木庵とて、晩年は京都にありとだれやらに聞きたり、小生は時代の差にして面識なけれど、探偵實話この人に少なからずと聞く。「岩井松三郎」は埋木庵の記述のままでなく、同紙の羽山菊酔が添削を施し、紙上には作者の名と並べて菊酔刪定としたり。その第一回に女中が主人の娘を呼ぶに、お高さんと名を呼びてお嬢さんなどとは云ってなし、これに就きて次の如く特に附記しをれり。

 「菊酔云ふ、下婢の分際として主人をお高さんと呼ぶは失態なりと思さんが、維新前は固より明治のはじめまでは、町家の風としてお娘さんお娘様などいふ敬称を用ゆることなく、皆爾く名を呼びしなり、今の若き讀者怪み給ふことは勿れ」。その直後に、この菊酔の説に、反論が同紙に投書されたる形跡なき如くなれば、江戸の末期より明治初期にかけて、菊酔の云ひたる如くなりし解してよろしきやうなり。

 六十年に近き昔の新聞文士菊(※ママ……「羽」の誤植か)山菊酔のことは、小生全く知らざれど「岩井松三郎」に現れたる用字例は、今となりては甚だ面白し。

 日々の粒々辛苦、丹精の集積だけが必ず宿すある衝迫力。今も昔も人の一日は二四時間、変わるはずもないその枠の内側で、ならばどのように身と時間とを折り合わせながら紙に向かうものか。「勉強」などという常に借りもの臭いもの言いも、そんな覚悟の下にもっと無理なく身の丈におさまるものになる、と信じたい。

恩は着るもの着せるものに非ず。金は贈ると借すの間にて生くるものなり。