室生犀星『我が愛する詩人の傳記』

 ここ3年半ほどの間、あれこれものを考えるにしても、手もとにある古書雑書の類と、そこから派生するとりとめない問いに関して求めて読むものをベースにして算段することしかできなくなっているけれども、そんな老害隠居化石脳の道行きでも、いくつか何となく焦点となるお題のようなものが、それなりにできてきていたりはする。そんな中のひとつにこのところ、いわゆる「詩」に関するもの、とりわけ本邦の「近代詩」「現代詩」と呼ばれてきたような領域に関するものが含まれている。

 とは言うものの、そもそも「詩」なんてのにまともに向き合ってきたことは正直、ほとんどなかった。それは「文学」や「美術」などと同じく、もっと言えば「芸術」ひとくくりにされるような領分そのものに対しての、引け目やらうしろめたさやらコンプレックスやらが一緒くたにないまぜになったような、自分のもの書き、あるいはうっかりものを考えたりするタチの人文系人間としてのある種のあかんところ、だったようにも思う。*1

 で、そんな次第で、近代文学史的な間尺での概論概説、教科書的なものだけでなく、いわゆる「詩人」とされてきた人がたの自伝なり評伝なり回想録といった類のものも、あらためて拾って読んでみたりしているのだが、巷間「作家」「小説家」「文学者」などと呼ばれてきたような人がた、言い換えれば「文学史」的にすでに大文字事項として正面から認定されてきているそれらの人々のものよりも、何というか、こちとら外道な民俗学的目線からすれば素朴にオモシロい細部や断片、挿話その他が実に濃密に含まれていることを「発見」して、結構それなりに楽しんでいたりする。

 この室生犀星のものなんて、そういう意味でいまさらながらに「発見」したようなもので、初版は昭和33年というから西暦1958年、自分の同学年の者の生年にあたる65年前の本。初出は『婦人公論』の連載だったようだが、すでに当時、戦後の出版ブームがさらに一段ブーストがかかり、雑誌も週刊誌が新たに出揃い、何より「小説」にしたところで中間小説などが大きくその市場を拡げ始めていた上げ潮の時期、「文学」そのものも世間一般その他おおぜいの「一般教養」のわかりやすい指標としてあらためて市場的・通俗的市民権を獲得していった頃でもあったろうから、「詩」も「詩人」もその恩恵に預かって、このような老舗の婦人向け雑誌にある種の随筆的に、と同時に「文学」的教養のわかりやすい読みもの的に、女性読者に向けてのこのような企画が成り立ったのだろうことはまず推測できる。

日本叙情詩の主流を尋ねる特異な伝記文学/著者が肌身をすり合せて語る近代詩の一大山脈!

 これに「毎日出版文化賞受賞」という文句も麗々しく、オビの惹句が表に並び、裏側には「昨日の雪いまいずこ/在りし日の十一人の詩人たちは/人々のおもいに/啾々として/何を物語るか」のリード以下、十一人の名前が並ぶ。

北原白秋高村光太郎萩原朔太郎釈迢空堀辰雄立原道造津村信夫山村暮鳥/百田宗治/千家元麿島崎藤村

 戦後の国語教育で、いわゆる「文学史」がどれくらいの割合を占めるようになっていったのか、特にそれがこの時期、六全協から60年安保敗退を介した戦後共産党的なるものの変質と共に、「日教組」が「教育」分野で政治的な勢力をそれまでと違う意味で拡げ始めていたことなどを考えあわせれば、これら「詩人」の固有名詞もまた、それら国語教育の脈絡での「文学史」の大文字事項として「一般教養」化し始めていたのかもしれない。そういう意味でのこのラインナップは、当時の世間一般その他おおぜいのうちの、ある種のおんなの人がた――つまり娯楽と共に「教養」も同じように求めることをし始めていたような「戦後の空気を胸いっぱいに吸い、戦後の教育を受けたあたらしい女性たち」にとっては、当時の芸能界の「スター」たちと同じような受け取られ方をし始めていたはずだ。

 客観的な伝記というよりも、犀星が主に棲んでいた軽井沢での生活を介した半径での高踏的な「詩人」たちのつきあいぶり、その細部こそが本当に興味深い。これをたとえば、いわゆるアナキズム系とひとくくりにされてきた、まただからこそ過剰に合焦され、それに見合った平板で通り一遍な理解しか与えられてこなかったフシのある一群の詩人たちの、同じ戦前から戦後にかけてのありようなどと引き比べると、「文学」的なたてつけでのくくられ方は等しく「詩」であり「詩人」であっても、棲息していた同時代の生態系はこうまで別世間、別天地だったのか、ということがいまさらながらにくっきりとある確かな像として立ち上がってくる。まさに「サロン」であり、それは戦前大正期の自由主義的な空気を昭和初期まで引き継ぎ、その中で「詩人」としての自意識形成を互いにつきあいながらしていた、そんな関係と場のありようが実によく見えてくるのだ。これは書き手である室生犀星の生活史的、世代的な背景があって初めて可能だった部分が大きいと思うが、まさにそういう意味での「私的」な回想を下地にした伝記的記述であるがゆえの味わいになる。

 そのような本なので、もう随所に味わい深い細部や断片などがありまくりで、まあ、それは実際に手にとってめくって確かめてもらうのが一番いいのだが、たとえば、堀辰雄立原道造津村信夫あたりの、自分より若い世代の後輩たちに対する人物評などは、同じ「詩人」としてのコミュニティを自明のものとした、いい意味での先輩からの視線が横溢していて、特にまぶしい。家族ぐるみのつきあい、というのが彼らとの間では割と普通にあり得たらしいこと、主人であり父である犀星よりも、妻や子どもたちの方が彼ら「若い世代の人たち」と親しくなったかのようにも見えたことなど、ある時期ある時代の本邦のある種の「家庭」のありよう、具体的な関係と場としてのひとつの例という意味でも味わい深い。 

 章立ても、とりあげられた十一人の詩人それぞれに対応したしつらえになっている。また、その扉に写真ページがいちいちさしはさまれていて、それぞれのポートレイトと共に、その裏になぜかその個人や作品に縁やゆかりのある風景写真がついているあたり、「詩」がこのような視覚的、ビジュアル的な「イメージ」想起の媒体として大衆的に「読まれる」ようになっていたことを期せずして明確に示している。「文学アルバム」的な企画が市場的にも需要が出てきただろうことや、それらとおそらく手をたずさえながら、あの「文学碑」や「詩碑」の類もまた、全国あちこちに建てられるようになっていった時代相が想起されて、これもこれでまた別のお題になるはず。というか、走り書き的に先走って言っておけば、「詩集」がやたら多く出版された、それも多くは私費で、という明治末から大正初期あたりの同時代感覚としても、それら詩集という書籍は、そこに収録されている詩作の作品だけでなく、装幀や挿画、活字のデザインや並び方などまで全部含めたいわば総合的な芸術作品、いまどきのもの言いにすればまさに「アート」なコンテンツ、のようなものだったらしいのだ。それはおそらく同じ時期に前景化してきたあの「童話」なども基本的に同じで、視聴覚的な情報を複合させてあらたな情感や興奮の類を喚起してくれる、そんなジャンルだったのだろう。さらにそこに演劇や舞踊から朗読などまで視野に入れた身体的でパフォーマティヴな要素も加えて線引きしなおしてみるなら、なるほどその後大正中期以降、昭和初期にかけての、一般には思想的・政治的なムーヴメントとだけとらえられているマルキシズムアナーキズム、その他教科書の太字事項的に刷り込まれてきたあんな主義こんな思潮にしても、新たな同時代、立体的な〈いま・ここ〉としての背景と共に、また異なる相貌を見せてくれるのだろう。

 いずれにせよ、このような「詩」と「詩人」の仕事が、本邦散文的な表現における〈リアル〉の形成過程に相当重要な働きをしていたらしいことに、ここにきて前景化して意識せざるを得なくなっているのは、たとえば犀星のこのような仕事を介してあれこれ考えておくべきお題の枝葉が繁るようになっている、そのへんの事情がどうやら大きいらしい。


 

*1:そのへんの事情を腑分けしてみれば、たとえば、こんな感じに。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

ルーエル・デニー/石川弘義・訳『ミューズのおどろき――大衆文化の美学』

 ああ、もうほんとに老害化石脳なんだな、と、われながら思い知ることが日々、増えてゆく。

 たとえば、いまどきの人がたの言う 「サブカル」と「おたく」、その違いがわからない。90年代以降、それらの間に何か垣根ができて、といった説明をしているのはわかるのだが、そこで使われている「サブカル」も、そして「おたく」も、共にそのもの言いに込められている意味内容、内実がこちらにははっきりわからない。

 「サブカル」といえばサブ・カルチュア(カルチャー、でもいいが)の略語だと思うから、え~と、それは当然メイン・カルチュアとの対比での用語で、でもそれは当然、前提としてマス・カルチュアという枠組みが必然的に出てきて以降の社会・文化的状況において、それ以前の状況での文化のありように対する理解をどう援用しながら、新たに出来した状況に対応できるようにしてゆくか、といった七転八倒の過程から明確に意識されるようになった一群の語彙だったはずで……といったことをあれこれ脳内で散らかった引き出しを引っ張り出して小間物屋を広げつつ、その言葉に込められているはずの意味内容をあらかじめ想定しながら、そこに書かれていることを理解しようとするのだけれども、そういう下ごしらえがほとんど「効かない」。

 「おたく」も同様で、それこそかの宮崎勤の一件を境に一気に世間一般その他おおぜいレベルで可視化され、だから汎用化されるようになったもの言いであり、でも事象としてはその少し前、概ね70年代末から80年代にかけての時期あたりから少しずつ日常的に可視化されるようになっていたものの、明確にそれと支持するもの言いが未だ発見されてなかった (あるいはそこまで切実に必要とされてなかった) 事象についての用語、といったひとまず一般的な定義を下地に調整しようと構えながら読んでみても、「サブカル」と同じく、そのような下地がまずもって役に立たない。

 これはこれで別の大きな問いにつながってゆく糸口ではあるし、別口で紡いでゆかねばならない作業なのも間違いない。同じ語彙やもの言いを文字ヅラ言葉の上では使い回しながら、でもそこに込められている意味内容が、それまでそれらの語彙が使われてきた脈絡や背景、文脈からなどもひっくるめての経緯来歴から、なぜかほとんど切断されたまま、でも平然と同じ語彙として、ある世代(だと思う、とりあえずわかりやすく言えば)以降では使い回されているということになる。それはどうも、同じ学術用語、概念の類が時代によってその内実を変えてゆく、ということでもないようだし、ある時期ある時代の新たな世相風俗に伴って現れた流行語が、時を経て汎用の語彙に組み込まれて行く過程などともおそらく違う。何かもっと本質的な不連続であり、それをもたらす背景や文脈なども含めて考えねばならないことなのだろうと思うが、ひとまずそれはそれとして、ここで提示してみたいのはそれとはまた異なる方向からの問いではある。

 ものごとは、時に裏返してみることも大事である。「サブカル」「おたく」をそのように使い回しているいまどき世代にとって、逆にこちらのような背景や文脈ごと理解しようとする側もまた、同じ語彙を使いながら意思疎通の困難な、わけのわからない存在になっているだろう。ならば、どうしてそうなっているのか、こちら側からその背景や文脈なりを、少しずつほどいて開陳してゆくこともまた、迂遠ではあれど、共に「わかる」に至る途として必要なことのはず。

 というわけで、前置き長くなったけれども、ここ数年ほど、自分自身の手もとの作業のひとつとしてやっている「大衆文化」「大衆社会」の精神/民俗史/誌、といった問いにまつわって、例によっての温故知新な古書雑書の味読再読読み直しの作業の中から、ひとつこんなものも、という意味でご紹介。


 リースマンやガルブレイスなど、戦後、アメリカの人文社会系――当時は「社会科学」という言い方が輝かしかったからそういう文脈で持ち込まれてきたようだが、それらの翻訳書が専門書としてだけでなく、当時改めてその市場を伸ばし始めていた一般の本読み活字好き、いわゆる「読書人」向けの「教養」商品としても大いに売れて読まれるようになっていった頃の、そういう一冊。リースマンの『孤独な群衆』の共著者として名前のあがっていたひとりが、このルーエル・デニー*1

デニー(左)とリースマン(右)*2

 もっとも、最近新たに再刊された加藤秀俊の訳による版の『孤独な群衆』では、この共著者のデニーも、ネーサン・グレイザーも共に省かれているようで、*3 日本語環境での「古典」として定着したらしい『孤独な群衆』がリースマンの名前と共に残るようになっているのに対して、デニーもグレイザーも、いまどきの新しい読者にとっては今後どんどん「なかったこと」にされてる存在になってゆくのかもしれない。もっとも、この加藤秀俊の訳は初訳ではなかったのだが、訳文としての読みやすさ、日本語の文章としてのこなれ具合などはなるほど、初版の佐々木徹郎他の訳によるものに比べても段違いで、その後の過程でこちらがスタンダードになっていった理由もよくわかる。このへん、初訳の佐々木らが大正生まれの戦前派、加藤秀俊が昭和初年生まれの戦後派であり、なおかつ、同じ「社会学」(当時の枠組みでの、為念)であっても、明らかに背景も育った時代状況も違う立場だったことなども含めて、このわずか数年を隔てただけの訳出の肌合いの違いは、また別の意味で興味深いだけでなく、「戦後」の言語空間になりたちを振り返ってゆく作業において、同時代の民俗資料的な意味あいを持ち得る足場のひとつだと思う。


 訳者の石川弘義は、加藤秀俊と同じく一橋は南博門下の後輩というか弟分みたいなところも当時あった社会学者。この人、大学院の指導教官だった野口武徳先生の、その勤務先だった大学の同僚で、同世代としてご家族ぐるみのつきあいでいらしたことや、日本常民文化専攻といういかめしい名前のついた自分ち民俗学の諸先輩がたよりも正直、隣のマスコミ専攻の連中とのつきあいの方がノリも合い、日常的にも親しかったところもあり、また、あれは非常勤だったのか、すでにご隠居大御所格だった南博のゼミにもちゃっかり出席してたりもして、*4 まあ、そんなこんなでご縁があったので、その仕事や著作なども割と早くからなじんではいた。*5

 とは言え、その頃の社会学の間尺だとこういう研究は主流でなく傍流で、新聞学とかマス・コミュニケーション論といった名前の科目や講座で脇役扱い、メディア論などの言い方もまだ出始めた程度で、まだ折り目正しい「社会科学」の経済学や経済史を下敷きにした農村社会学、地域社会学、家族社会学に都市社会学、といったハコが政策がらみの目線の縮尺で並ぶのが正規の社会学科のたてつけ、さらに社会学部の大バコになるとミッション系私大に多く、こちらは福祉関連や社会病理学(考えたらすごい名前だが)といった、戦後に輸入されたシカゴ学派(経済学の、ではなく。為念)経由のインテンシヴな現地調査、のちに「フィールド・ワーク」「質的調査」などとも呼ばれるようになってゆく芸風は、むしろこちらの方に居場所がしつらえられている印象だった。まあ、あくまでも岡目八目の外道な野次馬視線での理解ではあるのでそのへんご容赦、ではあるのだけれども。

 で、このデニーの仕事も、そのような当時の傍流だった、しかしジャーナリズム的には脚光を浴びつつあったそれらリースマンなどを経由したアメリカの社会学を紹介してゆく流れで、『孤独な群衆』の共著者である彼の仕事にも、実際にアメリカに留学してリースマンなどの教えを受けた加藤秀俊などを介して注目されるようになり、訳出されるようになったと推測される。とは言え、『孤独な群衆』の初訳(佐々木徹郎他、訳)が1955年、その後定訳的なものになった加藤秀俊訳の版が1964年なのに対して、このデニーの訳出はそれより早い1963年だから、訳出作業の進み具合などによる前後はあるとしても、むしろ『孤独な群衆』をあらためて新進気鋭の戦後世代の手による再訳出に踏み切るきっかけのひとつが、このデニーの仕事の訳出だった可能性もあるかもしれない。*6

 事実、リースマンはすでに1961年に夫婦で来日しており*7、初訳の『孤独な群衆』がすでにそれなりの読者を獲得して、ジャーナリスティックな意味においても、また論壇的な脈絡においても、注目を集めていたわけで、言い方はともかく、サルトルなどよりも早く、思想・教養的な「外タレ」商品の先行事例としてもすでに商品価値を高めていたと言っていい。それらの状況を足場にしながら、アメリカの社会学が「大衆社会」の現実とどう向き合い、言語化し、分析しようとしているのかについての興味関心が、本邦「読書人」市場としても、急速に大きくなっていった時期だったと言っていい。

 本書は、Reuel Denny, The Astonished Muse,1957 の全訳である。


 著者デニーは1913年生まれのアメリカの社会学者、詩人。1932年ダートマス大学でB.A、41年グゲンハイム・フェローとなる。45年から47年まで雑誌『フォーチュン』の編集に従事し、47年シカゴ大学に奉職、現在準教授。(…)詩人、社会学者という経歴も変わっているが、きくところによると、デニーの突飛な思いつきをリースマンが理論化するという共同作業も多いとのことである。事実、社会科学者の分析と詩人の発想とがたいへんにおもしろく結びついていることは、本書にもはっきりとあらわれていると私は思う。(訳者あとがき)

 このデニーの仕事に対しては、当時の本邦でも批判的な、少なくともちょっとした異物、キワモノ的な論調で当惑的なニュアンスと共に受け止められたところはあったらしい。副題に「大衆文化の美学」と銘打たれたのも、その「美学」というもの言いが当時、やはりそれまでの戦前由来な哲学脈絡での審美学的な抽象的考察でなく、戦後の言語空間に沿って出てきた視聴覚文化論やアヴァンギャルド芸術、あるいは主に文芸・文学畑で最も顕著に見られるようになった中間小説などに代表される文学のさらなる大衆化・通俗化現象に即した新たな芸術的な質への模索に対応する動きを反映していたことと共に、当時の「社会科学」的なるもの、からはやや異質な散文的で文芸批評的な肌合いを持っていたことが感じ取られていたからだろう。敢えて今風に言えば、それこそ「あなたの感想ですよね、それ」な仕事、ではあったらしいのだ、とりあえずは当時の前向きな意味において。

 しかし、それにしても、この内容が当時、本邦の「読書人」的な広がりの裡で、果たしてどれくらい身にしみて自分ごととして読まれたものか、当の石川先生や加藤先生らに直接、尋ねる機会は持てないままだったけれども、訳文の巧拙以前にまず、縦横無尽に言及、引用されているアメリカの日常生活におけるさまざまな大衆文化や、それらの下地に「そういうもの」としてあたりまえにアメリカ人には共有されているらしいこれまたさまざまな知識や情報が、その頃の日本人の標準としてはほとんど具体的にイメージできないものだったのではないだろうか。それこそアメリカ史、アメリカ文化の専門的な知識を背景に持っているような人がたならばいざ知らず、それ以外の「読書人」的背景では、この内容にがっちり編み込まれている各種の個別具体な大衆文化のディテール自体、紗幕の向こうに想像や推測と共に何とかぼやけた輪郭くらいしか結像できなかっただろう。

 それでもなお、このような仕事を翻訳された日本語で読みたい、読む必要がある、と考えたから、これは出版されたのだろうし、その向こうに当然、それこそ「マス≒大衆」のかたまりとしての「市場」もすでに拡がっていた。60年たったいま、〈いま・ここ〉の眼でこれをあらためて読むことは、60年前の当時の本邦「読書人」たちが読んだであろう「わかる」の水準との距離感や異なる位相感みたいなものも含めた「読み」が、同じ〈いま・ここ〉に重なり会いながら立ち現れる、そんな感覚がある。そういう意味で、現在この時点から読むことこそが、もしかしたら本来あり得たこの仕事に対する「読み」により近づけることになるかもしれないのだ。

 たとえば、マンガについての言及も、割と頻繁になされている。もちろんそれはアメリカのマンガであり、だからカートゥーンからコミック・ストリップへ、といったそもそもの彼の地のマンガの発展史をある程度、知識として持っていないとうまく合焦しにくいのだろうが、それでも、紙媒体でのそれらマンガ表現が、テレビの出現や広告媒体としてのマス・メディアの性格、戦後の「黄金の50年代」的な豊かさの中で育まれた子どもたちの想像力のありよう、などを補助線にしながら、表現としてどのように変わっていったのか、といった問いが、本邦昨今のマンガ「研究」と呼ばれるものにはない融通無碍で縦横無尽な視点でそこここに散りばめられていたりするのは、やはり素朴に刺激的ではある。それこそ小野耕世片岡義男あたりにコンメンタール的なガイドをしてもらえたならば、こちとら外道にももっとすんなり「わかる」になるんだろうが、そんな無い物ねだりをせずとも、ゆっくりほぐしながら読んでゆけば、充分に滋養は吸収できるはず。

 何よりも大事なことは、「好き」がまず、盤石の確かさでこの仕事には据えられていること。それはもう、冒頭の序章から威風堂々、くっきりとあらわれる。

 だいぶ昔の、とあるヴォードヴィルの舞台でみた、名も無い芸人の芸の思い出から、彼の記憶の引き出しが連想と共に開けられてゆく。

 こうした軽業師、手品師。それに初期のヴォードヴィルのヒーロー、ジョー・ジャクスンのまねをして、自転車に乗り舞台の下手へ行くにしたがって部品をだんだんとりはずしていく自転車の曲乗り師。ニューヨークのヒッポドロームの象。*8 踊り手たちが一度入るとそのまま消えてしまう仕掛けのタンク。地下鉄で見かけた拳闘選手のガンボート・スミス。 *9 同じく道ばたで会ったサム・ラングフォードという名の盲目の黒人ボクサー。*10 それにジャック・ブリトンという拳闘選手の夜間試合等々……。*11

 こうしたことをすべて私に教えてくれたのは私の「おじ」なのである。このほかにも私のおじは何人もの人のことを私に教えてくれた。ジミー・ウォーカー、ジェームズ・ファーレー、*12 ジェームズ・ハインズ、それに第一次世界大戦の勇士で「ブレット(実弾)」というアダ名をもつアイルランド人(この男は私のおじや私のひいおじいさんと同様ニューヨーク市の消防夫だった)。これらは、いずれも私とおじがニューヨークの街を歩いているときにおじが教えてくれた人たちなのである。

 阿佐田哲也小林信彦を想起する、そんな異邦人であるこちとらにもどこかなつかしい語り口。そりゃあ、これだと折り目正しい学術研究的な価値観・世界観に安住している世間からは、立派にキワモノ扱いされるだろう。だが、それがいい。だからこそ、いい。

 今日ではこのような子どもたちの仲良しになってくれるおじさんがいなくなったといわれている。子どもには、こうした家の外にいるおじさん――私はそれを「社会的な」おじさんとよぶのだが――によりかかることが必要なのだ。しかし、今日では独身のおじさんはだんだん少なくなってきて、したがって、私のおじさんが結婚する前によくやってくれたような、ふと思いたって甥を街のあちこちにつれていってやる暇もそれほどない、ということになっているようである。

 こういう「詩人・社会学者の文章の難解さ」には、訳者も相当苦労したらしい。できあがった訳文も、その苦労が随所に見てとれるもので、その意味では読みやすいとはちょっと言えない。文章が難解というのではなく、散りばめられている個別具体の名前やできごと、同時代的な教養の部分がこちとら異邦人には初見じゃ何のことやら、いちいちそれらを推測しながら進んでゆかねばならない分、なんというか、匍匐前進しかできない難行軍という感じにならざるを得ないのだが、でも、それもまたいい。いいし、それだけの値打ちはある。

 桶谷秀昭、志水速雄が訳出の「援助」をしてくれたことも記してある。当時の30歳前後、戦前昭和ひとケタ生まれの戦後派の若き知識人の仲間意識のようなものもほの見えて、ここでもまた、ちょっと立ち止まった。
 


 

 

*1:最近は「リュエル」と表記されているらしい。Reuel だからそっちの方が表記としては近いのか。

*2:もともと詩人で、リースマンのテニス友だちの親友だったらしいが、リースマンがシカゴ大学に赴任する際、一緒に連れてゆきポストも世話したような話だったはず。

*3:www.nytimes.com

*4:前にも何度か触れたが、どう見ても品の良いおじいちゃん(失礼……ただし眼光やたたずまいはタダモノではなかったが)の南センセイ、ゼミでの雑談めいたやりとりの中で「キミぃ、ドラえもんってのはあれはね……」とひとくさり社会心理学的な(だろう)解釈をさらっと始められたのには、その中身すら忘れてしまうほどの鮮烈な印象ではあったのだ、当時の「大学」「大学教師」についてのあたりまえの感覚としては。

*5:石川さん自身は、しごく温厚でスマートな先生ではあった。当時からテレビのクイズ番組や今でいうコメンテーター的な仕事もされていたので、そういう世慣れ方も加わってのたたずまいだったのだと思う。急逝した野口先生の没後のあれこれの雑務や葬儀の準備、新聞社への訃報掲載の手配などの手際のよさは、傍目で見て追い回しの若い衆のひとりでしかなかったこちらの眼からしても、見事なものだった。息子さんも研究者をめざしていたはずだが、その後どうされたか。晩年に「世田谷・9条の会」の呼びかけ人などされていたというのは、よくある左翼性どうこうというより、単に世代性と下町育ちの出自ゆえの素朴な戦後派民主主義者ゆえ、だったのだと思う。だから、もし晩年、お目にかかることがあったとしても、同じようににこやかに接してもらえただろうことは勝手に確信している。

*6:このへん、リースマン受容の「歴史社会学/人類学」wは、問いとしてなかなか魅力的だと思う。すでにどこかでやられているかもしれないが。

*7:この時の記録である『日本日記』は、当時の本邦「読書人」市場の広がりを期せずして記録したものであることなども含めて、民俗資料的な価値が高いと思う。

*8: 「The Hippodrome : ニューヨーク・ヒッポドローム劇場が開場したのは 4/12. ルナ・パークのオウナーによって建てられ建設費は 175万ドル。この新たな豪華劇場は、5,200席、舞台の奥行は30メートル、18メートルの張り出し舞台、サーカス会場を二つもち、4メートル強の深さの水泳プールがあり水面下には秘密の出口があるためコーラス・ライン全員が飛び込み消えることが出来た。」「1907年の作品「オートレースとポート・アーサーの戦い」では、象やロードレースやプールでの海戦を行うに十分は広さがあった。」

*9:

*10: www.thecanadianencyclopedia.ca

*11:www.ibhof.com

*12:  en.wikipedia.org

花田清輝『さまざまな戦後』

 花田清輝、というのは最近だと、どうなんだろう。やはりものの見事に忘れられているひとり、になるのだろうか。

 まあ、かの吉本隆明との大喧嘩の顛末が、高度成長期の上げ潮の時期にあたってしまっていたことがひとまず不幸ではあったわけで、そういう思想系の取り巻きギャラリー野次馬ひっくるめた「論壇」的なるもの、が大衆社会状況下の見世物として成り立つようになり始めていた、その早い時期での「ネタ」として消費された、まさにその渦中の一方の悪役キャラとして刷り込まれてしまったわけで、このへんは自分、以前から一貫して彼に対する評価の視点としてぶれていないつもりではあるのだ。

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 「負けた」ことになったこの喧嘩の後、花田の仕事は若い世代から読まれなくなった。それも一方的に。戦時中身を守るためのものだったかも知れないレトリックを駆使した文体は「老獪」と評され、「若さ」のふりまく潔さの前に薄汚いものとしか見られなくなった。それでも、彼は同じように本を出し、芝居を書き、小説をものし、人と人とが集まって作り出す創造の場を信じて世話役を続けた。

 まあ、近年は文庫版でいくつか著作が読みやすい形で復刻されていたりするみたいだから、何かの間違いで手にとる若い衆世代がいても不思議はないけれども、ただなぁ、「現代日本のエッセイ」というくくり方でパッケージングされているのは、講談社文芸文庫だが、個人的に納得いかない。岩波文庫版だけはそんなくくり方をしておらず、「評論集」と銘打ったオムニバスにしているのは、まだしも評価できる。このあたり、新しい皿に盛りつける、その盛りつけ方からしてセンスというか、見識が出てしまうところではあるのだからして。

 例によってめんどくさいことを言うようだけれども、ほんとのことだからしょうがない。特に、花田清輝のような、言葉本来の意味で八面六臂、マルチで多面的な活動をしてきた書き手の場合、一筋縄ではゆかないのはあたりまえ、個々の単著として出ているものをそのまま復刻したところで、うまく咀嚼してもらえるとは限らない。むしろ、正しく「編集」であり「編纂」であり、それこそ今様のけったくそ悪いカタカナ書きのそれとは全く違う、言葉本来の意味での「キュレーション」こそが絶対に求められる、そういう書き手の代表格。どういう見識で何を、どのように並べるのか、ついでにその意図や文脈の拠ってきたる理由などについても存分に解説して言語化してみせてくれて初めて、〈いま・ここ〉の読み手に対して、ほら、こういう具合にうまいんだってば、と示してくれる出版冥利も滲み出てくるってもんで。

 その意味で、この一冊などはそういう意味での花田清輝を「料理」して、その書き手としての全貌までもうまく描き出してくれた企画ものとして、やはり忘れがたい。

 自分は、これまでも何度か触れてきたように、山口昌男に割と恩恵を受けてきて、それは実際の人生においてもだけれども、書き手として惹きつけられるものがあったゆえの読み手の歓びを実感させてくれたという意味が大きかったのだが、その山口昌男の書いたものを辿って読んでゆくうち、その向こう側に透けて見えてきたのが花田清輝だった。山口昌男経由で透けて見えた書き手としてはその他、林達夫などもいたのだが、それはまた別の話だ。

 で、こういう山口昌男に対する読み方はそんなに外道でもなかったはずなのだが、自分などの世代が花田清輝に接近してゆく経路としては、すでに当時あまり一般的でもなくなっていたらしい。タマの出どころというか、もともとどういう知的形成を経てきて眼前の書き手になっているのか、というあたりのことを含めて、辿って読んでゆくということは、何も活字の本に限ったことでもなく、それこそ音楽の領分、気になった眼前のアーティストなりミュージシャンのそれまでの仕事、リリースされてきたレコードやCD、アルバムなどを「辿って」聴いてゆくことで、ある文脈をようやく自分の身の裡に宿してゆく、そういう過程は何であれ、いわゆる知的な情報摂取のありようとしてスタンダードだったと思うのだが、最近そのへんもどうなっているのか、かなりもうあやしいのだろうな、とは感じている、そう感じる自分の作法がすでにもう時代遅れの老害化石脳モードでしかないかもしれないことも含めて。

 ともあれ、そんなこんなで、この花田清輝にしたところで、この久保覚の「キュレーション」による花田清輝「だから」意味があるのだ。 

 活字文化以前の視聴覚文化の伝統を積極的に受けつがなければならない、と言った。古いと思われているものを〈いま・ここ〉の文脈に置き直して新たな意味を引き出しながら編み直してゆく。その「過去のなかに眠っている可能性をつかみだし、それを未来を志向する力へと変貌させてゆく作業」(久保覚)は、しかし今のうわついたマルチメディア論などよりはるかに壮大で骨のあるものだった。
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 編集者としての久保覚というのは、これまた知る人ぞ知るで、ある世代以上の人文系単行本中心に携わってきたような独立系編集者の人がたなどの間では、名前を出しただけでにんまりして、実際に手は出さないまでもココロの裡で握手を求めてきているのがビンビン伝わるような御仁も未だにおらしたりする、ある意味喚起力のある名前だったらしいのだが、まあ、これまた例によってすでに遠く忘れられつつある固有名詞のひとつではあるのだろう。経歴等は検索してもらえれば概略わかるだろうが、自分としては因縁浅からぬせりか書房のファウンダーだったということが最も濃い属性として最初、刷り込まれていた。 *1 もちろん、生前お会いすることはないままだったのだけれども、そして仮にお会いしたところで間違いなく外道として嫌われていただろうことも確信あるけれども、山口昌男の初期の函入りクソデカ本であるあの『人類学的思考』が、その後「新編」と称してリニューアルされた版も含めて、このせりか書房の最初の頃の仕事だったことなども、ああ、そういうことか、と腑に落ちてゆく過程がその後あったりした。

 *2

 花田清輝から山口昌男へ、というこの脈絡は、間に介在していた久保覚という編集者の腕と眼力を介して、いわゆる演劇的な地平、生身のからだとそれをもとに涵養され発散もされる「場」についてしつこく合焦してゆく〈知〉の傾向、それこそ「性癖」として、自分の中で徐々に察知されてゆくことになった。で、それは極私的な来歴とバックラッシュのように交錯してゆき、10代末から20代半ばくらいの時期に考えなしに、当時自分のいた環境ごかしの「そういうもの」としてつまみ喰いしていた演劇書界隈の「読む」の記憶と得手勝手に接続、それらを雑書の山の中から掘り出してあらためて〈いま・ここ〉の「読む」にさらしてゆくという邂逅にもつながっていったりしたのだからして。

 政治的なものも含めての「運動」と「演劇」「舞台表現」の〈リアル〉が、花田清輝の中では早くからあたりまえのように結びつけられていたことが、この一冊の編まれている脈絡からは、おそらく他のどんな能書き並べた花田清輝関連の「論」や「批評」よりもわかりやすく、自分のような外道ボンクラ目線からもよく見えるように仕立てられている。そしてそれは、かの吉本隆明との喧嘩沙汰を機に一気に「悪役」としてしか認識されなくなっていった花田清輝という書き手の仕事についての当時ならではの不幸と不自由を、同じその同時代を呼吸していた側から「違う、そうじゃない」という低いつぶやきと共に、言葉本来の意味での異議申し立てとして提出していた証しとしても、〈いま・ここ〉からならばくっきりとその輪郭を見せてくれるものでもある。

 それにしても、昨今のあの「キュレーション」とかいうもの言い、ほんとにどうにかならんものか。「編集」「編纂」でもちろんいいのだけれども、でもその漢字二文字熟語自体がすでにあれこれ手垢がついて、もともとの輝きがくすんでしまっている以上、この久保覚のような「編集者」の腕と眼力について過不足なく言語化してゆくこともまた、いろいろ困難かつ難儀なことになってきているわけで、もちろんそれはいまどきの、そしてこれから先の本邦日本語を母語とする環境での人文系の〈知〉の再編、再構築をマジメに考えようとする立場からは、正しく不幸なことであるのだ。

*1:このへんの因縁については、まあ、またあらためて記しておかねばならないこともあるような気がするが……とりあえずこのへんとか、いろいろ絡んでたりはする。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

*2:共に筑摩書房に版権が移管されたのか、それとも「新編」だけがもともと筑摩のものということなのか、何にせよ今様の味気ないペーパーバック的な装いになっちまっとる……もとはこれくらい目方でドン、の元祖みたいな装いの本だったのだ。

堀切直人『浅草』

 自分だけの大事な書き手、というのが、いる。
 
 誰もが知っているのではない。言及されているわけでもない。いや、どうかするとほとんどその名を知られていない、どうかするとすでに遠い時間の彼方に埋もれていたり、いま、この時代を生きているのかも忘れられていたりする、そんな存在だったりする。

 けれども、手もとにある本の一冊、古本屋の店先でたまたま手にとって、ここにやってきたものをめくっているうちに、あ、こりゃ縁ある御仁だ、と気づいてそのまま何度も何度も、子どもがあめ玉をしゃぶるように読み返しめくり直している。世間一般その他おおぜい的にはほとんどもう忘れられてるに等しい、けれども自分ひとりにとっては繰り返し「読む」ことでいつも新たに再会し直し続けることのできる、そういう書き手が何人か、いる。

 壮大な伽藍のような理論抽象体系のつくりもの、を賞翫する人がたがいる。文章はつくりもの、だから職人の手わざで丹精込めてこさえられるもの、という信心の共同体。細心鏤骨、なんて言い方もあった。泉鏡花などから幻想文学、耽美猟奇な方向へと興味関心開いてゆくそれらある種の、いや本読みとしてはそちらが正道なのかも知れないけれども、いずれそれらのお耽美系読み手の群れが讃仰するような活字/文字の世間に対しては、いつも距離を持って眺めてきた。そっちにゃ行けない、そういう「自分」は間違いなくあった。

 活字読みの偏屈、というのが露わな書き手というのは、それ自体そんなに珍しくもない。けれども、その偏屈にも風土というか、背景の違いというのもあって、どうも関西系、特に京都由来のそれはあまり相性がよろしくない。独特のエリート意識みたいなものが鼻につくのだ。一方、江戸前のそれら偏屈というのもあって、そっちもそっちで面倒くさいのは確かではあれ、でも、やっぱり肌合いがあうのだ。晩年の平岡正明もそんな体臭をまつわらせるようになっていたし、出身は異なれど山口昌男にしたところで分類すればそっちになる。このへん、自分自身の出自など考え合わせても分裂してると思うのだが、こういう感覚と趣味だけはどうしようもない。

 けれども、そういう「そっち」から、紙を介した知己というのは現われてくる。それもそれなりに確実に。彼らの生きる世間とはついぞ親しくつきあうことはできないままだったのに、彼らの中から導き出されてくるものについては確かに親しみを感じることが少なくなかった。距離置いて眺めてきたからこその邂逅の仕方。

 堀切直人もそんな知己のひとり、である。

 と言って、全くの見ず知らずというわけでもない。以前、まだ血気盛んだった頃にこさえていた手作り不定期のニューズレター、当時だとミニコミとかそういう類で理解されていたと思うが、それを縁あって眼にしてくれたらしく、何かの折りに文章で紹介してくれたことがあった。いや、それすらも間に浅羽通明以下、早稲田の幻想文学界隈の人脈があったからこそだったと思うのだが、それでも一度か二度、何かの集まりでお会いしたことはあるはずだ、というのは、何冊か献呈本が手もとにあるからだ。つまり、著書を送ってもらったことはあるんだけれども、それをきっかけに私信や年賀状のやりとりなどがあったという記憶はない。これはこちとらがずぼらでそういう世間並みの冠婚葬祭の類が苦手だから、という言い訳をまたしてもしなければならないのだが、それにしても当方、幻想文学やファンタジーに嗜みがとんと薄いままなのだが、そっちに趣味のある偏屈の書き手には案外なじめたりするらしいのも、これまた自分ながら不思議ではある。*1

 文芸批評が本芸の人、ということでいいのかも知れない、出版業界的には。とは言え、守備範囲がいわゆる近代文学の正統とされてきたようなあたりとは少し違ってて、またその違い方というのも対象となる作家や作品、時代などがでなく、明らかにそれらの素材を取り上げ、「読む」その角度が違うという感じ。いや、むしろその「読む」のありよう自体が本体であるような批評なのだ。客観的に、とか、合理的説得力が、とかそういうのではなく、その「読む」そのものがある種の批評性と抜き難く結びついていて、その「読む」過程を共に旅してゆくみたいなつきあい方を親しくしてくるような。

 どちらにしても、そういう書き手はその書いた仕事の中身ではなく、書き手自身に対する信頼感と共に、読み手もまた選ぶ宿命にある。それまでに書いてきた彼の仕事、『迷子論』『大正流亡』『大正幻滅』『読書の死と誕生』『喜劇の誕生』などなど、知る人ぞ知るという程度の間尺でしか知られてなかったことは、たとえば個人的には渡辺京二などとも通じる「おりる」を実装してしまった知性の宿命のようにも感じる。

 この「浅草」のシリーズは、中でもおそらく白眉。自前で自腹で地元の図書館の類に日々通って出会ったさまざまな個別具体がこれでもかとばかりに贅沢に、でも淡々と、どのページにもまんべんなく同じ調子で紙面にちりばめられている。「効率的」に「合理的」に「業績」をアウトプットするための速度では全くない。淡々と日々のなりわいのように通った結果のことが、字ヅラからたちのぼってくる気配でわかる。しかも、自身言っているようにワープロやパソコンの類は使えない、手書きのメモやノートでの道行き。丹精とか、粒々辛苦とか、そういうもの言いにさえどこかそぐわないような、身についてしまった「おりる」の作法ならではの「そういうもの」としての凄みなのだ。*2

 求めに応じて書く、注文があってそれに合せて仕事をする、そんな職業的書き手に通常想定されるような過程で生まれる仕事ではない。あてもなく、ただ自分の求めに応じて自分が書く、それ自体が自分の存在証明であるような、そういう日々の作業の積み重ねの上にようやく姿を現わすことのできた、でも改めて気づけばかなりとんでもないもの。無償と無欲と、それらを支える世間的には無為の時間とが、いずれ幸せな邂逅の仕方をしたからこそあり得たような文字の集積。自分的にはここ数年ほどずっとこだわっているような意味での「おりる」ことの凄みを体現したテキストのひとつではあるのだけれども、でも、そんなことはとりあえずどうでもいい。

 「文学」がこうまで干涸らびてしまい、そしてそれらを語る「批評」や「評論」の類もまた同じく生体反応をなくしてしまって久しい現在、でもそれは「読む」のやり方によって、方法的に関わることのできる主体が「読む」ことによって、全く異なる様相をうっかり見せ始めてくれることの証明。渡辺京二の『逝きし世の面影』が同じようにうっかり示していたような、方法的な「おりる」が「読む」主体に実装されてしまったことで露わになったテキストの可能性の豊穣さ。すでに歴史的な過去として存在するしかなくなって久しい「作品」たちが、このように全く異なる内実を〈いま・ここ〉にあらわにしてしまうことに瞠目しつつ、また自らの作業としてそれを自分のものにしてゆくことをあらためて志せる、そんな糸口になってくれる仕事である。

 
 


 

 

*1:児童文学あたりにまで広げてみてもいいかも知れない。ああ、そういう意味では高橋康夫や山中恒もそうだ。

*2:近い系譜としては、今だとたとえば、萩原魚雷あたりになるのかも知れない。そう言えば彼も、まだほんとにあんちゃんの時代、二部の大学中退だかで食い詰めていた時に縁あって知り合い、某新聞社にバイト的に紹介したことがあったっけ。数年前、まだ同じ職場にいるというので、そこの中の人と共に久方ぶりに邂逅したのだけれども、たたずまいは相変わらず、年齢を重ねた分だけ風体はおっさんになっていて、かつての細身で中性的な中原中也めいた面影はほとんどなくなっていたけれども、その場の存在の仕方、いたたまれなさみたいなものは同じだった。

橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』

完本チャンバラ時代劇講座

完本チャンバラ時代劇講座

*1
*2
 ひとつの本を繰り返し巻き返し読む、ということも「読む」のひとつであることが、どうも最近は意識されにくくなっているらしい。繰り返す、反復する、というのは何かを「記憶」するためのやり方、という理解もそれには関わってきているような。ということは、ある一定の限られた時間や期間に繰り返し、反復し、という、どこか忙しくあわただしい印象がそこにはつきまとってくる。

 何年も、時には何十年も間をあけて繰り返し「読む」ということだって現実にはあり得るし、そういう「読む」の効果というのも文字/活字とのつきあい方の中には含まれている。それだけ間をあければ、その時間の経緯の中で当の「読む」こちら側もまた変わってきているわけで、その変わった自分が同じ本をもう一度「読む」ことで立ち上がる理解というのは、言うまでもなく新たな発見、それまでと違う現実と出会える可能性も含めてのことになる。もちろん、どんな本でもそういう読み方に耐えるわけでもないらしい。時を経て明らかに古びてしまう、新しい〈いま・ここ〉からの「読み」を引き受けられない、そんな本も確かにある。ただ、同時にその一方で、そういう読み方をすることに平然と耐えてしまう本、というのも、確かに世の中には存在する。

 橋本治のこの本も、まさにそういう一冊。なのだが、世の誰もにとってそういう本、というのでもない。読み手を選んでくる、良くも悪くも。

 それが証拠に橋本治、これまでもかなりの数の本を世に出してきていて、それは「作家」という肩書きの表芸であるはずの小説から評論、エッセイや雑文、対談や講演などから、何だかよくわからないけれどもとにかく若い衆励ます啓蒙書の類(こういうのが実は多い)まで多岐多様にわたり、そのうちのかなりの部分が文庫や新書に再録され、今でもそれなりの数が手に入りやすい形になっているのを見てもわかる通り、書き手として間違いなく一定の固定読者、ファンと言ってもいい層が未だに市場としてあるらしいのだけれども、しかし、こいつは未だに再刊されてもいないし、文庫や新書などのコレクションにも加えられていない。

 けれども、出た当初から自分などは、こりゃ立派な専門書、学術書だ、民俗学の博士号とっととやるべきだ、くらいの見当外れな興奮の仕方をしていた。そしてその興奮は、刊行から30年以上たってしまった今もなお、手にとってページを開くたびに新たなものになる。

 大衆文化論、とひとまず言っていいのだろうが、でも、おそらくそれではうまく紹介したことにならないはずだ。文学史でもありメディア史でもあり、かつまた演劇史でも芸能史でもあるし、もちろん映画史でもあるようなものだ。じゃあ、歴史の本か、と問われると、いやそうでもない、少なくともそういう「歴史」と言って普通に想起されるような歴史とはだいぶ装いも内実も違いがあるはずだし、何よりいわゆる歴史に興味関心があるような本読みにとっては、まずその文体からして面食らうようなものだろうし。作家だから随筆やエッセイ、評論というくくりでもいいのだろうが、それほどゆるいものでもない。かなりガチで本気な、それだけ「読む」側にもある種の気力や集中力、体力も含めて「教養」を要求する、そういう割としんどい中身ではあるのだ、文体その他の見てくれが見てくれだからなかなかそうは思われないだろうけれども。

 「これが通俗だ!」と銘打たれた章があるけれども、おそらくその「通俗」について本腰入れて理詰めで考えようとするとこういうものになった、というあたりが、自分的にはいちばんしっくりするこの本の紹介の仕方になるような気がする、とりあえずは。近代このかたの日本文化の有為転変の、その「通俗」という角度から見た視野がどういうものか。既存の学問なり〈知〉の道具立てからはそれぞれ分割統治されてきていてうまく連携されていない、だからこそ〈いま・ここ〉に生きる読み手の生身にとっては立体的なイメージとしてとらえられることのないままだった、そういう言葉本来の意味での「通俗」目線での「歴史」のありようが期せずしてそこに立ち上がっている。そのことに気づいて素直にびっくりできるかどうか、というのがまず、読み手を選ぶということのハードルになっている。

 もちろん、表題通り時代劇、かつて「ちゃんばら」と呼ばれていたような映画を素材にしてのものだから、そのように読んでいいし、個別具体な固有名詞や作品名、それらにまつわる蘊蓄ディテールの類が随所にきらびやかに散りばめられているから、そのへんを素直に楽しむことができるならそれも幸せなことだろう。橋本治の文体が橋本治を「読む」際の最初の、しかもおそらく最大級の障壁になっている、というのは、橋本治を読んできた者にとってはすでにある種の常識だが、その障壁もこういう題材こういう展開ならば、彼の小説よりははるかにとっつきやすいものに、だからその文体の向こう側にひそんでいる「とんでもない何ものか」の気配も察知しやすいものになっているはずだ。
 
 そういう「とんでもない何ものか」の例。ワンセンテンスでわかりやすくびっくりできるならできるようなもの版。

 夢を現実化させる為の手がかり、それがリアリズムであるというのが芸能の真実です。だから「大衆芸能の流れ」というのはだんだんリアルになってきて、それまでに陽の当たってなかった方面(たとえばエロ)に寄ってきて、最終的にはそれが「現実」になって観客が平気で舞台の上にあがってきちゃう。

 びっくりしない? そうか、ならばテレビについてあっさり語ってみせているこんなのはどうだ。

 そこにカメラを持って行きさえすれば遠くの受像機にそれが映る。テレビ局は何も作らなくていい。だからテレビは芸能でなく「報道」です。報道されたものを受け手が芸能としてとらえるから「芸能」になる、というようなものです。

 メディア論でも新聞学でも、芸能史でも放送史でも、こういう包括の仕方、既存の敷居や仕切りをいきなりすっ飛ばして「わかる」を読み手の裡にいきなり引き出し映し出してみせるような、こういう「芸」こういう「技術」のあり方。何より、それが日本語の文章という媒体を介して可能であること、その証しとしても。

 テレビは基本的に「報道」で「ニュース」でしかないようなものですが、これはテレビ放送の初期にはあまりよく分かられてなかった。何故かというと初期のテレビカメラには機動性と記録性がなかったからです。

 初期のテレビのニュースとはフィルムを使う映画のカメラで収められた「ニュース映画」を編集して、それをテレビカメラにつないで受像機へ送り出すということでした。結局は「ニュース」「報道」であるようなテレビが、その初期にはニュース報道ができなかったのです。

 でも、ニュースを報道できなかったテレビはちゃんと「娯楽」を報道していた。それが「プロレス中継」であり「野球中継」であり「舞台中継」だったりする「実況中継」でした。テレビは世間的には「娯楽」と位置づけられるものを報道していたがために、報道のメディアだとは思われなかったのです。

 テレビは「特殊な娯楽」なんです。観る側の態度如何によってそれが報道か娯楽か教養かを決定されてしまうような「特殊な娯楽」であるようなメディア、どんなものでも娯楽になり得るという、娯楽についての新しい考え方を作り出してしまった、それまでとは全く異質なメディアなんです。

 テレビに芸は必要ありませんから、上手下手はないのです。あるのは「テレビ映りが良いか悪いか」という観る側観られる側の「主観――即ち思い込み」だけです。テレビ以外のメディアには上手下手という「芸の基準」があるからこそ「芸能」ですが、観る側はテレビにもそれがあると思ってしまった。

 情報環境という視点を、社会や歴史、文化といったこれまでの大文字の概念、抽象的な飛び道具としてのそれらのことばやもの言い介して設定されてきたものに対して全面的に補助線として当ててみる、そうすることでおそらく初めて、今われわれが活きているこの現在からの過去の成り立ち、何がどうしてどうなったらどういう具合にこの現在、〈いま・ここ〉に至っているのか、という経緯来歴について立体的に、かつなまなましく「わかる」につなげてゆくことができるはず――そういう「夢」を実現してゆけるためのひとつの可能性を具体的に見せてくれる、そういう「とんでもない何ものか」というのも、もちろん読み取ったっていいのだから。*3

*1:人に向かって紹介しにくい本、というのはある。この場合、それは良い意味でということなのたが、橋本治が書いたもの、それもそのうち最も良いものは概ね大体そういう本、である。

*2:亡くなった……。・゚・(ノД`)・゚・。190129

*3:と、このへんもまた 「もちろん」橋本治調だったりする。