ルーエル・デニー/石川弘義・訳『ミューズのおどろき――大衆文化の美学』

 ああ、もうほんとに老害化石脳なんだな、と、われながら思い知ることが日々、増えてゆく。

 たとえば、いまどきの人がたの言う 「サブカル」と「おたく」、その違いがわからない。90年代以降、それらの間に何か垣根ができて、といった説明をしているのはわかるのだが、そこで使われている「サブカル」も、そして「おたく」も、共にそのもの言いに込められている意味内容、内実がこちらにははっきりわからない。

 「サブカル」といえばサブ・カルチュア(カルチャー、でもいいが)の略語だと思うから、え~と、それは当然メイン・カルチュアとの対比での用語で、でもそれは当然、前提としてマス・カルチュアという枠組みが必然的に出てきて以降の社会・文化的状況において、それ以前の状況での文化のありように対する理解をどう援用しながら、新たに出来した状況に対応できるようにしてゆくか、といった七転八倒の過程から明確に意識されるようになった一群の語彙だったはずで……といったことをあれこれ脳内で散らかった引き出しを引っ張り出して小間物屋を広げつつ、その言葉に込められているはずの意味内容をあらかじめ想定しながら、そこに書かれていることを理解しようとするのだけれども、そういう下ごしらえがほとんど「効かない」。

 「おたく」も同様で、それこそかの宮崎勤の一件を境に一気に世間一般その他おおぜいレベルで可視化され、だから汎用化されるようになったもの言いであり、でも事象としてはその少し前、概ね70年代末から80年代にかけての時期あたりから少しずつ日常的に可視化されるようになっていたものの、明確にそれと支持するもの言いが未だ発見されてなかった (あるいはそこまで切実に必要とされてなかった) 事象についての用語、といったひとまず一般的な定義を下地に調整しようと構えながら読んでみても、「サブカル」と同じく、そのような下地がまずもって役に立たない。

 これはこれで別の大きな問いにつながってゆく糸口ではあるし、別口で紡いでゆかねばならない作業なのも間違いない。同じ語彙やもの言いを文字ヅラ言葉の上では使い回しながら、でもそこに込められている意味内容が、それまでそれらの語彙が使われてきた脈絡や背景、文脈からなどもひっくるめての経緯来歴から、なぜかほとんど切断されたまま、でも平然と同じ語彙として、ある世代(だと思う、とりあえずわかりやすく言えば)以降では使い回されているということになる。それはどうも、同じ学術用語、概念の類が時代によってその内実を変えてゆく、ということでもないようだし、ある時期ある時代の新たな世相風俗に伴って現れた流行語が、時を経て汎用の語彙に組み込まれて行く過程などともおそらく違う。何かもっと本質的な不連続であり、それをもたらす背景や文脈なども含めて考えねばならないことなのだろうと思うが、ひとまずそれはそれとして、ここで提示してみたいのはそれとはまた異なる方向からの問いではある。

 ものごとは、時に裏返してみることも大事である。「サブカル」「おたく」をそのように使い回しているいまどき世代にとって、逆にこちらのような背景や文脈ごと理解しようとする側もまた、同じ語彙を使いながら意思疎通の困難な、わけのわからない存在になっているだろう。ならば、どうしてそうなっているのか、こちら側からその背景や文脈なりを、少しずつほどいて開陳してゆくこともまた、迂遠ではあれど、共に「わかる」に至る途として必要なことのはず。

 というわけで、前置き長くなったけれども、ここ数年ほど、自分自身の手もとの作業のひとつとしてやっている「大衆文化」「大衆社会」の精神/民俗史/誌、といった問いにまつわって、例によっての温故知新な古書雑書の味読再読読み直しの作業の中から、ひとつこんなものも、という意味でご紹介。


 リースマンやガルブレイスなど、戦後、アメリカの人文社会系――当時は「社会科学」という言い方が輝かしかったからそういう文脈で持ち込まれてきたようだが、それらの翻訳書が専門書としてだけでなく、当時改めてその市場を伸ばし始めていた一般の本読み活字好き、いわゆる「読書人」向けの「教養」商品としても大いに売れて読まれるようになっていった頃の、そういう一冊。リースマンの『孤独な群衆』の共著者として名前のあがっていたひとりが、このルーエル・デニー*1

デニー(左)とリースマン(右)*2

 もっとも、最近新たに再刊された加藤秀俊の訳による版の『孤独な群衆』では、この共著者のデニーも、ネーサン・グレイザーも共に省かれているようで、*3 日本語環境での「古典」として定着したらしい『孤独な群衆』がリースマンの名前と共に残るようになっているのに対して、デニーもグレイザーも、いまどきの新しい読者にとっては今後どんどん「なかったこと」にされてる存在になってゆくのかもしれない。もっとも、この加藤秀俊の訳は初訳ではなかったのだが、訳文としての読みやすさ、日本語の文章としてのこなれ具合などはなるほど、初版の佐々木徹郎他の訳によるものに比べても段違いで、その後の過程でこちらがスタンダードになっていった理由もよくわかる。このへん、初訳の佐々木らが大正生まれの戦前派、加藤秀俊が昭和初年生まれの戦後派であり、なおかつ、同じ「社会学」(当時の枠組みでの、為念)であっても、明らかに背景も育った時代状況も違う立場だったことなども含めて、このわずか数年を隔てただけの訳出の肌合いの違いは、また別の意味で興味深いだけでなく、「戦後」の言語空間になりたちを振り返ってゆく作業において、同時代の民俗資料的な意味あいを持ち得る足場のひとつだと思う。


 訳者の石川弘義は、加藤秀俊と同じく一橋は南博門下の後輩というか弟分みたいなところも当時あった社会学者。この人、大学院の指導教官だった野口武徳先生の、その勤務先だった大学の同僚で、同世代としてご家族ぐるみのつきあいでいらしたことや、日本常民文化専攻といういかめしい名前のついた自分ち民俗学の諸先輩がたよりも正直、隣のマスコミ専攻の連中とのつきあいの方がノリも合い、日常的にも親しかったところもあり、また、あれは非常勤だったのか、すでにご隠居大御所格だった南博のゼミにもちゃっかり出席してたりもして、*4 まあ、そんなこんなでご縁があったので、その仕事や著作なども割と早くからなじんではいた。*5

 とは言え、その頃の社会学の間尺だとこういう研究は主流でなく傍流で、新聞学とかマス・コミュニケーション論といった名前の科目や講座で脇役扱い、メディア論などの言い方もまだ出始めた程度で、まだ折り目正しい「社会科学」の経済学や経済史を下敷きにした農村社会学、地域社会学、家族社会学に都市社会学、といったハコが政策がらみの目線の縮尺で並ぶのが正規の社会学科のたてつけ、さらに社会学部の大バコになるとミッション系私大に多く、こちらは福祉関連や社会病理学(考えたらすごい名前だが)といった、戦後に輸入されたシカゴ学派(経済学の、ではなく。為念)経由のインテンシヴな現地調査、のちに「フィールド・ワーク」「質的調査」などとも呼ばれるようになってゆく芸風は、むしろこちらの方に居場所がしつらえられている印象だった。まあ、あくまでも岡目八目の外道な野次馬視線での理解ではあるのでそのへんご容赦、ではあるのだけれども。

 で、このデニーの仕事も、そのような当時の傍流だった、しかしジャーナリズム的には脚光を浴びつつあったそれらリースマンなどを経由したアメリカの社会学を紹介してゆく流れで、『孤独な群衆』の共著者である彼の仕事にも、実際にアメリカに留学してリースマンなどの教えを受けた加藤秀俊などを介して注目されるようになり、訳出されるようになったと推測される。とは言え、『孤独な群衆』の初訳(佐々木徹郎他、訳)が1955年、その後定訳的なものになった加藤秀俊訳の版が1964年なのに対して、このデニーの訳出はそれより早い1963年だから、訳出作業の進み具合などによる前後はあるとしても、むしろ『孤独な群衆』をあらためて新進気鋭の戦後世代の手による再訳出に踏み切るきっかけのひとつが、このデニーの仕事の訳出だった可能性もあるかもしれない。*6

 事実、リースマンはすでに1961年に夫婦で来日しており*7、初訳の『孤独な群衆』がすでにそれなりの読者を獲得して、ジャーナリスティックな意味においても、また論壇的な脈絡においても、注目を集めていたわけで、言い方はともかく、サルトルなどよりも早く、思想・教養的な「外タレ」商品の先行事例としてもすでに商品価値を高めていたと言っていい。それらの状況を足場にしながら、アメリカの社会学が「大衆社会」の現実とどう向き合い、言語化し、分析しようとしているのかについての興味関心が、本邦「読書人」市場としても、急速に大きくなっていった時期だったと言っていい。

 本書は、Reuel Denny, The Astonished Muse,1957 の全訳である。


 著者デニーは1913年生まれのアメリカの社会学者、詩人。1932年ダートマス大学でB.A、41年グゲンハイム・フェローとなる。45年から47年まで雑誌『フォーチュン』の編集に従事し、47年シカゴ大学に奉職、現在準教授。(…)詩人、社会学者という経歴も変わっているが、きくところによると、デニーの突飛な思いつきをリースマンが理論化するという共同作業も多いとのことである。事実、社会科学者の分析と詩人の発想とがたいへんにおもしろく結びついていることは、本書にもはっきりとあらわれていると私は思う。(訳者あとがき)

 このデニーの仕事に対しては、当時の本邦でも批判的な、少なくともちょっとした異物、キワモノ的な論調で当惑的なニュアンスと共に受け止められたところはあったらしい。副題に「大衆文化の美学」と銘打たれたのも、その「美学」というもの言いが当時、やはりそれまでの戦前由来な哲学脈絡での審美学的な抽象的考察でなく、戦後の言語空間に沿って出てきた視聴覚文化論やアヴァンギャルド芸術、あるいは主に文芸・文学畑で最も顕著に見られるようになった中間小説などに代表される文学のさらなる大衆化・通俗化現象に即した新たな芸術的な質への模索に対応する動きを反映していたことと共に、当時の「社会科学」的なるもの、からはやや異質な散文的で文芸批評的な肌合いを持っていたことが感じ取られていたからだろう。敢えて今風に言えば、それこそ「あなたの感想ですよね、それ」な仕事、ではあったらしいのだ、とりあえずは当時の前向きな意味において。

 しかし、それにしても、この内容が当時、本邦の「読書人」的な広がりの裡で、果たしてどれくらい身にしみて自分ごととして読まれたものか、当の石川先生や加藤先生らに直接、尋ねる機会は持てないままだったけれども、訳文の巧拙以前にまず、縦横無尽に言及、引用されているアメリカの日常生活におけるさまざまな大衆文化や、それらの下地に「そういうもの」としてあたりまえにアメリカ人には共有されているらしいこれまたさまざまな知識や情報が、その頃の日本人の標準としてはほとんど具体的にイメージできないものだったのではないだろうか。それこそアメリカ史、アメリカ文化の専門的な知識を背景に持っているような人がたならばいざ知らず、それ以外の「読書人」的背景では、この内容にがっちり編み込まれている各種の個別具体な大衆文化のディテール自体、紗幕の向こうに想像や推測と共に何とかぼやけた輪郭くらいしか結像できなかっただろう。

 それでもなお、このような仕事を翻訳された日本語で読みたい、読む必要がある、と考えたから、これは出版されたのだろうし、その向こうに当然、それこそ「マス≒大衆」のかたまりとしての「市場」もすでに拡がっていた。60年たったいま、〈いま・ここ〉の眼でこれをあらためて読むことは、60年前の当時の本邦「読書人」たちが読んだであろう「わかる」の水準との距離感や異なる位相感みたいなものも含めた「読み」が、同じ〈いま・ここ〉に重なり会いながら立ち現れる、そんな感覚がある。そういう意味で、現在この時点から読むことこそが、もしかしたら本来あり得たこの仕事に対する「読み」により近づけることになるかもしれないのだ。

 たとえば、マンガについての言及も、割と頻繁になされている。もちろんそれはアメリカのマンガであり、だからカートゥーンからコミック・ストリップへ、といったそもそもの彼の地のマンガの発展史をある程度、知識として持っていないとうまく合焦しにくいのだろうが、それでも、紙媒体でのそれらマンガ表現が、テレビの出現や広告媒体としてのマス・メディアの性格、戦後の「黄金の50年代」的な豊かさの中で育まれた子どもたちの想像力のありよう、などを補助線にしながら、表現としてどのように変わっていったのか、といった問いが、本邦昨今のマンガ「研究」と呼ばれるものにはない融通無碍で縦横無尽な視点でそこここに散りばめられていたりするのは、やはり素朴に刺激的ではある。それこそ小野耕世片岡義男あたりにコンメンタール的なガイドをしてもらえたならば、こちとら外道にももっとすんなり「わかる」になるんだろうが、そんな無い物ねだりをせずとも、ゆっくりほぐしながら読んでゆけば、充分に滋養は吸収できるはず。

 何よりも大事なことは、「好き」がまず、盤石の確かさでこの仕事には据えられていること。それはもう、冒頭の序章から威風堂々、くっきりとあらわれる。

 だいぶ昔の、とあるヴォードヴィルの舞台でみた、名も無い芸人の芸の思い出から、彼の記憶の引き出しが連想と共に開けられてゆく。

 こうした軽業師、手品師。それに初期のヴォードヴィルのヒーロー、ジョー・ジャクスンのまねをして、自転車に乗り舞台の下手へ行くにしたがって部品をだんだんとりはずしていく自転車の曲乗り師。ニューヨークのヒッポドロームの象。*8 踊り手たちが一度入るとそのまま消えてしまう仕掛けのタンク。地下鉄で見かけた拳闘選手のガンボート・スミス。 *9 同じく道ばたで会ったサム・ラングフォードという名の盲目の黒人ボクサー。*10 それにジャック・ブリトンという拳闘選手の夜間試合等々……。*11

 こうしたことをすべて私に教えてくれたのは私の「おじ」なのである。このほかにも私のおじは何人もの人のことを私に教えてくれた。ジミー・ウォーカー、ジェームズ・ファーレー、*12 ジェームズ・ハインズ、それに第一次世界大戦の勇士で「ブレット(実弾)」というアダ名をもつアイルランド人(この男は私のおじや私のひいおじいさんと同様ニューヨーク市の消防夫だった)。これらは、いずれも私とおじがニューヨークの街を歩いているときにおじが教えてくれた人たちなのである。

 阿佐田哲也小林信彦を想起する、そんな異邦人であるこちとらにもどこかなつかしい語り口。そりゃあ、これだと折り目正しい学術研究的な価値観・世界観に安住している世間からは、立派にキワモノ扱いされるだろう。だが、それがいい。だからこそ、いい。

 今日ではこのような子どもたちの仲良しになってくれるおじさんがいなくなったといわれている。子どもには、こうした家の外にいるおじさん――私はそれを「社会的な」おじさんとよぶのだが――によりかかることが必要なのだ。しかし、今日では独身のおじさんはだんだん少なくなってきて、したがって、私のおじさんが結婚する前によくやってくれたような、ふと思いたって甥を街のあちこちにつれていってやる暇もそれほどない、ということになっているようである。

 こういう「詩人・社会学者の文章の難解さ」には、訳者も相当苦労したらしい。できあがった訳文も、その苦労が随所に見てとれるもので、その意味では読みやすいとはちょっと言えない。文章が難解というのではなく、散りばめられている個別具体の名前やできごと、同時代的な教養の部分がこちとら異邦人には初見じゃ何のことやら、いちいちそれらを推測しながら進んでゆかねばならない分、なんというか、匍匐前進しかできない難行軍という感じにならざるを得ないのだが、でも、それもまたいい。いいし、それだけの値打ちはある。

 桶谷秀昭、志水速雄が訳出の「援助」をしてくれたことも記してある。当時の30歳前後、戦前昭和ひとケタ生まれの戦後派の若き知識人の仲間意識のようなものもほの見えて、ここでもまた、ちょっと立ち止まった。
 


 

 

*1:最近は「リュエル」と表記されているらしい。Reuel だからそっちの方が表記としては近いのか。

*2:もともと詩人で、リースマンのテニス友だちの親友だったらしいが、リースマンがシカゴ大学に赴任する際、一緒に連れてゆきポストも世話したような話だったはず。

*3:www.nytimes.com

*4:前にも何度か触れたが、どう見ても品の良いおじいちゃん(失礼……ただし眼光やたたずまいはタダモノではなかったが)の南センセイ、ゼミでの雑談めいたやりとりの中で「キミぃ、ドラえもんってのはあれはね……」とひとくさり社会心理学的な(だろう)解釈をさらっと始められたのには、その中身すら忘れてしまうほどの鮮烈な印象ではあったのだ、当時の「大学」「大学教師」についてのあたりまえの感覚としては。

*5:石川さん自身は、しごく温厚でスマートな先生ではあった。当時からテレビのクイズ番組や今でいうコメンテーター的な仕事もされていたので、そういう世慣れ方も加わってのたたずまいだったのだと思う。急逝した野口先生の没後のあれこれの雑務や葬儀の準備、新聞社への訃報掲載の手配などの手際のよさは、傍目で見て追い回しの若い衆のひとりでしかなかったこちらの眼からしても、見事なものだった。息子さんも研究者をめざしていたはずだが、その後どうされたか。晩年に「世田谷・9条の会」の呼びかけ人などされていたというのは、よくある左翼性どうこうというより、単に世代性と下町育ちの出自ゆえの素朴な戦後派民主主義者ゆえ、だったのだと思う。だから、もし晩年、お目にかかることがあったとしても、同じようににこやかに接してもらえただろうことは勝手に確信している。

*6:このへん、リースマン受容の「歴史社会学/人類学」wは、問いとしてなかなか魅力的だと思う。すでにどこかでやられているかもしれないが。

*7:この時の記録である『日本日記』は、当時の本邦「読書人」市場の広がりを期せずして記録したものであることなども含めて、民俗資料的な価値が高いと思う。

*8: 「The Hippodrome : ニューヨーク・ヒッポドローム劇場が開場したのは 4/12. ルナ・パークのオウナーによって建てられ建設費は 175万ドル。この新たな豪華劇場は、5,200席、舞台の奥行は30メートル、18メートルの張り出し舞台、サーカス会場を二つもち、4メートル強の深さの水泳プールがあり水面下には秘密の出口があるためコーラス・ライン全員が飛び込み消えることが出来た。」「1907年の作品「オートレースとポート・アーサーの戦い」では、象やロードレースやプールでの海戦を行うに十分は広さがあった。」

*9:

*10: www.thecanadianencyclopedia.ca

*11:www.ibhof.com

*12:  en.wikipedia.org