室生犀星『我が愛する詩人の傳記』

 ここ3年半ほどの間、あれこれものを考えるにしても、手もとにある古書雑書の類と、そこから派生するとりとめない問いに関して求めて読むものをベースにして算段することしかできなくなっているけれども、そんな老害隠居化石脳の道行きでも、いくつか何となく焦点となるお題のようなものが、それなりにできてきていたりはする。そんな中のひとつにこのところ、いわゆる「詩」に関するもの、とりわけ本邦の「近代詩」「現代詩」と呼ばれてきたような領域に関するものが含まれている。

 とは言うものの、そもそも「詩」なんてのにまともに向き合ってきたことは正直、ほとんどなかった。それは「文学」や「美術」などと同じく、もっと言えば「芸術」ひとくくりにされるような領分そのものに対しての、引け目やらうしろめたさやらコンプレックスやらが一緒くたにないまぜになったような、自分のもの書き、あるいはうっかりものを考えたりするタチの人文系人間としてのある種のあかんところ、だったようにも思う。*1

 で、そんな次第で、近代文学史的な間尺での概論概説、教科書的なものだけでなく、いわゆる「詩人」とされてきた人がたの自伝なり評伝なり回想録といった類のものも、あらためて拾って読んでみたりしているのだが、巷間「作家」「小説家」「文学者」などと呼ばれてきたような人がた、言い換えれば「文学史」的にすでに大文字事項として正面から認定されてきているそれらの人々のものよりも、何というか、こちとら外道な民俗学的目線からすれば素朴にオモシロい細部や断片、挿話その他が実に濃密に含まれていることを「発見」して、結構それなりに楽しんでいたりする。

 この室生犀星のものなんて、そういう意味でいまさらながらに「発見」したようなもので、初版は昭和33年というから西暦1958年、自分の同学年の者の生年にあたる65年前の本。初出は『婦人公論』の連載だったようだが、すでに当時、戦後の出版ブームがさらに一段ブーストがかかり、雑誌も週刊誌が新たに出揃い、何より「小説」にしたところで中間小説などが大きくその市場を拡げ始めていた上げ潮の時期、「文学」そのものも世間一般その他おおぜいの「一般教養」のわかりやすい指標としてあらためて市場的・通俗的市民権を獲得していった頃でもあったろうから、「詩」も「詩人」もその恩恵に預かって、このような老舗の婦人向け雑誌にある種の随筆的に、と同時に「文学」的教養のわかりやすい読みもの的に、女性読者に向けてのこのような企画が成り立ったのだろうことはまず推測できる。

日本叙情詩の主流を尋ねる特異な伝記文学/著者が肌身をすり合せて語る近代詩の一大山脈!

 これに「毎日出版文化賞受賞」という文句も麗々しく、オビの惹句が表に並び、裏側には「昨日の雪いまいずこ/在りし日の十一人の詩人たちは/人々のおもいに/啾々として/何を物語るか」のリード以下、十一人の名前が並ぶ。

北原白秋高村光太郎萩原朔太郎釈迢空堀辰雄立原道造津村信夫山村暮鳥/百田宗治/千家元麿島崎藤村

 戦後の国語教育で、いわゆる「文学史」がどれくらいの割合を占めるようになっていったのか、特にそれがこの時期、六全協から60年安保敗退を介した戦後共産党的なるものの変質と共に、「日教組」が「教育」分野で政治的な勢力をそれまでと違う意味で拡げ始めていたことなどを考えあわせれば、これら「詩人」の固有名詞もまた、それら国語教育の脈絡での「文学史」の大文字事項として「一般教養」化し始めていたのかもしれない。そういう意味でのこのラインナップは、当時の世間一般その他おおぜいのうちの、ある種のおんなの人がた――つまり娯楽と共に「教養」も同じように求めることをし始めていたような「戦後の空気を胸いっぱいに吸い、戦後の教育を受けたあたらしい女性たち」にとっては、当時の芸能界の「スター」たちと同じような受け取られ方をし始めていたはずだ。

 客観的な伝記というよりも、犀星が主に棲んでいた軽井沢での生活を介した半径での高踏的な「詩人」たちのつきあいぶり、その細部こそが本当に興味深い。これをたとえば、いわゆるアナキズム系とひとくくりにされてきた、まただからこそ過剰に合焦され、それに見合った平板で通り一遍な理解しか与えられてこなかったフシのある一群の詩人たちの、同じ戦前から戦後にかけてのありようなどと引き比べると、「文学」的なたてつけでのくくられ方は等しく「詩」であり「詩人」であっても、棲息していた同時代の生態系はこうまで別世間、別天地だったのか、ということがいまさらながらにくっきりとある確かな像として立ち上がってくる。まさに「サロン」であり、それは戦前大正期の自由主義的な空気を昭和初期まで引き継ぎ、その中で「詩人」としての自意識形成を互いにつきあいながらしていた、そんな関係と場のありようが実によく見えてくるのだ。これは書き手である室生犀星の生活史的、世代的な背景があって初めて可能だった部分が大きいと思うが、まさにそういう意味での「私的」な回想を下地にした伝記的記述であるがゆえの味わいになる。

 そのような本なので、もう随所に味わい深い細部や断片などがありまくりで、まあ、それは実際に手にとってめくって確かめてもらうのが一番いいのだが、たとえば、堀辰雄立原道造津村信夫あたりの、自分より若い世代の後輩たちに対する人物評などは、同じ「詩人」としてのコミュニティを自明のものとした、いい意味での先輩からの視線が横溢していて、特にまぶしい。家族ぐるみのつきあい、というのが彼らとの間では割と普通にあり得たらしいこと、主人であり父である犀星よりも、妻や子どもたちの方が彼ら「若い世代の人たち」と親しくなったかのようにも見えたことなど、ある時期ある時代の本邦のある種の「家庭」のありよう、具体的な関係と場としてのひとつの例という意味でも味わい深い。 

 章立ても、とりあげられた十一人の詩人それぞれに対応したしつらえになっている。また、その扉に写真ページがいちいちさしはさまれていて、それぞれのポートレイトと共に、その裏になぜかその個人や作品に縁やゆかりのある風景写真がついているあたり、「詩」がこのような視覚的、ビジュアル的な「イメージ」想起の媒体として大衆的に「読まれる」ようになっていたことを期せずして明確に示している。「文学アルバム」的な企画が市場的にも需要が出てきただろうことや、それらとおそらく手をたずさえながら、あの「文学碑」や「詩碑」の類もまた、全国あちこちに建てられるようになっていった時代相が想起されて、これもこれでまた別のお題になるはず。というか、走り書き的に先走って言っておけば、「詩集」がやたら多く出版された、それも多くは私費で、という明治末から大正初期あたりの同時代感覚としても、それら詩集という書籍は、そこに収録されている詩作の作品だけでなく、装幀や挿画、活字のデザインや並び方などまで全部含めたいわば総合的な芸術作品、いまどきのもの言いにすればまさに「アート」なコンテンツ、のようなものだったらしいのだ。それはおそらく同じ時期に前景化してきたあの「童話」なども基本的に同じで、視聴覚的な情報を複合させてあらたな情感や興奮の類を喚起してくれる、そんなジャンルだったのだろう。さらにそこに演劇や舞踊から朗読などまで視野に入れた身体的でパフォーマティヴな要素も加えて線引きしなおしてみるなら、なるほどその後大正中期以降、昭和初期にかけての、一般には思想的・政治的なムーヴメントとだけとらえられているマルキシズムアナーキズム、その他教科書の太字事項的に刷り込まれてきたあんな主義こんな思潮にしても、新たな同時代、立体的な〈いま・ここ〉としての背景と共に、また異なる相貌を見せてくれるのだろう。

 いずれにせよ、このような「詩」と「詩人」の仕事が、本邦散文的な表現における〈リアル〉の形成過程に相当重要な働きをしていたらしいことに、ここにきて前景化して意識せざるを得なくなっているのは、たとえば犀星のこのような仕事を介してあれこれ考えておくべきお題の枝葉が繁るようになっている、そのへんの事情がどうやら大きいらしい。


 

*1:そのへんの事情を腑分けしてみれば、たとえば、こんな感じに。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com