吾妻光良 『ブルース飲むバカ 歌うバカ』

 

ブルース飲むバカ歌うバカ

ブルース飲むバカ歌うバカ

 

 

 吾妻光良、かあ、いとなつかしや。

 77年の春、早稲田は八号館前で、料理用ワインのボトルをかたわらに、生ギターでブルース弾きまくり歌いまくりで騒いでいたのを覚えている。「ロッククライミング」だっけか、理工学部にあった軽音楽サークルだったような。

 その後、『Player』誌に連載を持ってて、もちろんブルース以外のことなんざ書けるわけもなく、毎回毎回バカ騒ぎノリの「昭和軽薄体」(笑)まがい、いや、どっちかっつ~と山下洋輔あたりに影響されたんだと思うが、何にせよそういう騒々しくもけたたましい文章を書き殴っていたなあ。おもしろかったし、好きだった。

 文化放送だかどこかの音響スタッフとして働いている、と聞いている。今もたまに、深夜番組のクレジットロールにチラッと名前が出てくることも。それでいて、スウィンギングバッパーズ名義でCDもたまに出して、趣味、というより道楽、としての音楽の本道をまっしぐらに千鳥足(妙な言い方だが)、というのがありありで、いや、ご同慶の至りであります。

 地方から出てきた自意識過剰のガキだったこちとらが、結局は芝居のまわりに入っていったのだが、梅雨のあとくらいだったか、そのことを報告しに行った時も、そうかあ、演劇少年になっちゃったかあ、と呵々大笑、と言って、だからどうということもなく、いつもと同じように酔っぱらってギター一本で同じようなブルースをかき鳴らし我鳴っていただけだった。何でもありだ、好き勝手に生きやがれ、という突き放したやさしさ、みたいなものをどことなく感じていたなあ、と、今になって振り返ってみて、思う。

 特別、なことでもなかった。人生、好きなことやって好きに生きていいんだ、ということを体現してくれているようなオトナ、が当時はまだ、そこここにいた。そんな中のたまさかひとり、に出会い頭に出くわしてしまった、そういうことだったのだと思う。音楽や芝居やブンガクや、何であれそういう分野にうっかりと淫してしまったことで、田舎の親や親戚からは「人生間違えやがった」と苦い顔されるような、そんな生がそこら中に転がっていた、今思い返せば。

 ガクモンの方面だったら、それは文化人類学だの民俗学だののまわりに生きた標本みたいなのが確かにいた。山口昌男にしても、網野善彦にしても、いや、そんなすでに当時ある程度の名前になっていた人たちじゃなくても、彼らもまた正しく one of them として、そういうわがままな「自由」、生きることと抜きがたくからんでしまった「道楽」の気配を濃厚に漂わせた御仁というのとは、普通に行き会えるものだったはずだ。特に、大学なんてものに籍を置いて大学生をやっていたならば。

 将来ってやつはいつも茫洋としていて、二十歳を過ぎても二十五歳になっても、まだ自分がどうなるものか、何より自分自身が何ものなのか、わけわからん、という状態が日々続いていた。大学院に「入院」したのだって、何か確かな目算や野心があったわけじゃない。大学の教員、研究者になれるかも、という気分はないではなかったけれども、でもそれも、私大のそれも民俗学なんてところにひっかかってる限りまずあり得ん、ということは速攻でわかったし、学部から大学院へまっすぐに入ってきた東大だの何だのという場所にいる連中の「アタマの良さ」と、それに必然的にまつわっている毛並みの違い、ってやつが、こりゃもう初手からご縁のない世界、ってことをどうしようもなく教えてくれていた。

 ということは、いまどきの若い衆みたいに先行き不安、自分がどうなってゆくのだろう、てな閉塞感があって不思議はなかったと思うのだが、しかし、そういう煮詰まった感じ、ってのはなぜかそれほどなかった。それだけ自分のやっていることが、まあ、楽しかったんだろうし、そんな日々がそれなりに充実もしていたんだろう。

 だから、オヤジの無責任を承知で敢えて言う。 みんな将来を決め打ちし過ぎるんじゃないか、とは思う。あるいは、決め打ちしなければいけない、と思わされ過ぎてるんじゃないか、とか。

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 『ザ・ブルース』『ブラック・ミュージック・レビュー』『ブルース・アンド・ソウル・レコーズ』……巻末にあるこういった初出誌のリストを眺めて、どこでどういう具合に出されていた雑誌なのか、わかる人は絶滅品種だろう。あたしもわからん。人並みに楽器もいじっていたし、ブルースも聞いてきたけれども、限られた自分のリソースをそっち方面一辺倒に消尽するようにはならなかった。これはもうはずみというか縁、としか言いようのないもんでしょうがない。けれども、しかし、なのだ。70年代末からそれこそ雨後のタケノコのようにあちこちで生まれ、勝手に「内輪」をつむぎ出して盛り上がっては消えていった、それらさまざまなやくたいもないそれら零細マイナー系カルチュア領域での雑誌たちの「ノリ」みたいなものは、当時リアルタイムで接したことのない領域だったとしても、いやになるくらいわかる、そんなものだ。

 だから、相も変わらず新鮮、である。眼を通し、読んでゆきながら、明らかに自分の裡に当時の空気や昂揚感、が蘇生してくるのがわかる。あ、いや、もっとむくつけに言う方がいいか。輝かしき若気の至り、今だとそれこそ「中二病」(笑)でかたづけられるような、しかし確かに最強の勘違いをそこら中で多くのろくでなし予備軍たちが24時間シフトでやらかしていたけったいな時代の、まさに「昭和」末期のあっけらかん、が再生されてくるのだ。ほら、こんな風に。

 確か、高校2年の終り、もしくは3年の最初だったと思う。友達のTというやつが、アーフーリーの『アーリー・レコーディングス』を貸してくれた。その頃は、3大キングと、ジョン・リー、マディ、そして何故かジョニー・ヤングぐらいしか聴いた事がなかった筈だ。最初に聴いた印象は何かわからないけど「暑い音楽だなあ」というような感じだった。しばらくすると「やけに生々しい」という点に気づいた。でも、とにかく、聴いたとたんに、「うん、こりゃあ凄い、ばっちしだ」という様な感じでは、決して無かった様に思う。


 そろそろ受験という事もあって、自分の勉強部屋にいる事が割とあったので、ステレオからカセット・テレコにダビングして、いろろいなものを自分の部屋で聴いていたのだが、確か、B・Bのクック・カウンティ・ジェイルでのライヴをC-60に入れて余ったところに、ライトニンのA面の1~4曲を入れてあった。部屋で聴いていると、母親が入ってきて、「そんな悪魔の音楽を聴くのは、よしなさい」と言ったとしてたら凄いが、実際は、「そんなお経みたいなのが近所に聴こえたら恥ずかしいから、小さくしなさい」と言われたのだが、「いやだなあ、これが格好良いんだよ」とか虚勢をはってたこともある。

 このところ確信している。受験勉強とサブカルチュアの関係、というのは、もっと掘り起こされねばならない記憶をはらんでいる。別に学校がらみでなくても、「勉強」への信心とある程度までのそのための身体技術というやつは、サブカルチュアにイレ込んでゆく際の最低限の一般教養として実装されるものだった。ベンキョーできないやつは好きなことを好きなように楽しむこともできない――そんなわかりやすいことすら、当時はまだ、誰も教えてくれなかったのだけれども、今やしかし、それをことばにして伝えて納得させないことには、いまどきの若い衆のあの茫洋とした閉塞感にくさびのひとつも打ち込むことはできない、と思う。

 ああ、そうだ。吾妻光良、と同じように、王様、もまた、そういう意味で、素晴らしいんだよねえ。これはまた改めて、かも。

ブルース飲むバカ歌うバカ

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