稲垣恭子『女学校と女学生』

私にとって、最も身近な「女学生」は母である。吉屋信子夏目漱石を愛読し、手紙やスピーチに独特の感情表現を込め、ミッション・スクールと修道院に憧れ、女学校時代の友人とファーストネームで呼び合う「万年女学生」の母に対して、面白さと同時に身内ならではの気恥ずかしさも感じてきたものである。

 フェミニズムが置いてきぼりを食らい始めている。当人たちがそう認知しているかどうかは知らない。けれども、想像できる限り最も気の毒な方向で、情況(敢えてこの表記を使ってみたい)から落伍し始めているのがはっきりと見える。

 それも主に同性からだ。何も俗流保守の考えなしに軽蔑されているということではない。そんなものなら初手からそうだ。同じインテリないしは本読み世間の、おそらくはフェミニズムにとっていちばん味方となってもらいたかったはずの同性のインテリおよびその後世たちから、役立たずとして遠ざけられているのだ。

 何も論戦で負けた、こっぴどく論破されたとかそういうのでは全くない。あくまでその具体的な視点と態度と、そしてその上におおむね立った仕事の微細な積み重ねにおいて、これまでのフェミニズムの言説が拠って来たった前提というのが何だったのか、そろそろきれいに浮かび上がらされてしまったということだ。いや、もっとはっきり言おう。何よりもみっともなく恥ずかしいものにさせられてしまった、と。ああ、ほんとに、あたしが上野千鶴子だったら、もうほんとに逼塞して世捨て人になっちまうくらいに恥ずかしい、はずなのだが。

 そんな中で、当のオンナたちの間から、言葉本来の意味での自らの歴史と来歴について足もとから気づいてしまった、そんな機運がちらほらと出てきている。それはほんとに、オトコだオンナだをひとまず措いておくとしても、まず何よりこういう水準の「歴史」や「文化」に責任を持たねばならない立場の民俗学者として、素直に喜ばしい。

 「女学生」というのもひとつのターミナルになっている。戦前から連なる「歴史」の相において、それらを微細な自身の経験の内からことばにしてゆこうという志向性は、フェミニズム相対化以前からあったものだが、でも背景となる文脈が違うものになっている分、闊達で屈託ないものになっている。本書などはその典型。自分の母親の「女学生」時代の記憶の掘り起こし。もちろんそれは母子二代続けて「女学生」であり得たような自分自身の家庭環境について自覚してゆくこと、も含んでのことであり、そういう社会的背景の上に自らの言説もある、ということについての補助線を引いてゆくことでもある。

 オンナとは、とか、オトコとは、といった問いの立て方をうっかりしてしまうような性癖というのは、ニッポンとは、とか、地球環境とは、とか、国家とは、といったもの言いに引き寄せられるのと同じこと。少し前なら「天下国家」と呼ばれたような水準の言葉やもの言いでしか、オトコやオンナ、も語れなくなっていた、そのこと自体をまず相対化しておかないことには、どんな「論」もすでに現実の前に無効になる。

 フェミニズムに限らず、どうしてそういう大文字の、「天下国家」の水準のもの言いに惹かれてしまったのか、そこをすっ飛ばしたところでもはやどんな「知性」も「教養」もあったものではない、ということに、みんなようやく少しは眼を開き始めた。それは時に「衆愚」と呼ばれ、「ポピュリズム」と蔑まれることも珍しくなかった高度成長期以降の未曾有の「豊かさ」のもたらした高度大衆社会状況での「知性」のありようが、結果として準備したものだ。その一点においては、わがニッポンの〈いま・ここ〉も肯定されてもバチは当たらない、そう思う。

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)