長谷川伸『石瓦混淆』

 

  いつかいつかと思いつつ、棚上げにしていた仕事がそこここに散らばったまんま、気がつけば歳を食っている。なんのことはない、もう半世紀も生きたことになっちまってる。馬齢を重ねて、というもの言いも少しは身にしみる季節。たとえば、長谷川伸がいかに民俗学者であったか、について語ることも、そんな中で気がかりのままになっている大きなネタのひとつだ。

 いまさら何を、かも知れない。おそらくそうだ。でも、ほんとにすげえ、と嘆息するような記述を、紙の上に刻まれた活字の列が質としてはらんでいる凄みは格別。戯曲や小説などについては、それぞれ専門分野の先達がいくらもいるし、何よりじかに教えを受けたお弟子筋の面々が今もなおご存命、活躍中。いくら厚顔無恥が通行手形の身でも、筋違いの民俗学者などの出る幕でもないだろう。

 ただし、だ。その書きつけだけはちょっとひとこと言わせてもらわねばならない。ノート、雑記、覚え書き……何でもいいのだけれども、彼、長谷川伸の残したそれら断片の記述が、どれだけ滋味にあふれるものになっているのか、については、もっともっときちんと伝わってゆくことばに変換して伝えておかねばならないことだ。いっぱしの日本人として。

 『石瓦混淆』という一冊がある。せきがこんこう、と読むのだろうか。非売品として彼の没後、まわりの人たちが編纂して配ったものらしい。

 この本は先生の奥様が、その間、いろいろの方々から受けられた有形無形の御親切にたいし、何かおかえしがしたいということから生まれたのである。だから、この本の製作にあたっては特に奥様の御希望により、奥様御自身が先生の日誌、メモ、新聞雑誌の切抜き、講演速記などから原稿を選択され、更に御自分で筆写、編集、校正までなさり、自費で出版された。義弟にあたられる新小説社社長長島源四郎史が印刷所関係を手伝われ、(…) それは極くわずかなことでほとんどが奥様の手によって成ったといっていい。

 それまでも、『耳を掻きつつ』『材料ぶくろ』など、題名そのものがなかなか粋な味わいのそれら書きつけ集は出ていて、それは特に戦後、晩年になって一気に続けて刊行されている事情が、奥付その他からよくわかる。こういうディテールに富んだ「小さなことば」の記述を愉しんで眼にするような読者が、「敗戦」によっておそらく解き放たれたのだろう。それ自体がまた、忘れられた「戦後」の効果のひとつ、だったはずだ。

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中に数葉、別刷頁で写真がさしはさまれている。そのひとつ、「江ノ島・鎌倉園遊会」と付記された古い写真に写る“新コ”。海水浴場が正しく「玄人」の興行に委ねられていた時代、地元の地回りと組んで新聞社もまたそのような玄人の一員だった頃の、客気横溢する一枚。中央はなるほど長谷川伸だが、あとのふたりは、平山蘆江と伊藤みはるだろうか。左がみはる、右が蘆江と見たが、違っていたらご容赦。ただ、他にもこの三人組の写真は残されていて、今で言う「突撃ルポ」を敢行、上野駅前でおのぼりさんを装ったり、年の瀬の夜泣き蕎麦屋に身をやつしたり、といったやんちゃをやらかしているのを見ても、おそらく間違っていないかと。

 『私眼抄』の中、「机上の荷駄」という一章にはことさら思い入れがあるらしい。文語体である。口語体で書くより書きやすかった、と言っている。確かに、口語体のものよりも“新コ”の体臭やぬくもりがそこに間近に感じられる。あるいは、「明治」を生きた身体の、とか。

 文字本来、書きことば自体がもともと宿している、そんな力。落ち着いた、しかし確かに躍動感もたたえた「読み」を引き出してくれるしみついたような黒さの文字、また文字。日本語で「読む」ことの愉快をおそらく誰もが感じることのできるテキスト、である。

 イカサマは関東語にて、インチキは上方語なりと云ふ。東西共通となりしは大正以前なるべし。「隠語輯覧」(京都府警察編・大正四年刊)には、同義のものとして収録しあり。

 『戦争論』に収録されているだろう、いわゆる「慰安婦」のことをつづった長谷川伸のテキストを小林よしのりに紹介したことがある。「事実残存抄」から抜き出したものだが、“おはなし”と〈リアル〉の間をどのように媒介してゆくのがまっとうなのか、という時の主体の態度というやつを、過不足なく示してくれていることが、何より見事なのだ。“おはなし”に埋没して酔うだけでなく、そこから瞬時に身をひるがえして距離も置く。コミットメントとデタッチメント。でも、そんなこざかしい知性の小手先の技にとどまらないのは伸コ、やはりただものではない。人がこの世に生きてあること、生きてゆくことの多様さ、とりとめなさ、敢えて雑駁に言えば「何でもあり」の〈リアル〉について、あきらめながら凝視して、しかし決して絶望も嘆息もしない、そんな強靱さ。ここははっきり、「タフ」、と横文字由来のことばで評しても、叱られないはずだ。

 明治三十年(一八九七年)ごろ、「探偵實話岩井松三郎」なるもの都新聞に連載さる。筆者は橋本埋木庵とて、晩年は京都にありとだれやらに聞きたり、小生は時代の差にして面識なけれど、探偵實話この人に少なからずと聞く。「岩井松三郎」は埋木庵の記述のままでなく、同紙の羽山菊酔が添削を施し、紙上には作者の名と並べて菊酔刪定としたり。その第一回に女中が主人の娘を呼ぶに、お高さんと名を呼びてお嬢さんなどとは云ってなし、これに就きて次の如く特に附記しをれり。

 

 「菊酔云ふ、下婢の分際として主人をお高さんと呼ぶは失態なりと思さんが、維新前は固より明治のはじめまでは、町家の風としてお娘さんお娘様などいふ敬称を用ゆることなく、皆爾く名を呼びしなり、今の若き讀者怪み給ふことは勿れ」。その直後に、この菊酔の説に、反論が同紙に投書されたる形跡なき如くなれば、江戸の末期より明治初期にかけて、菊酔の云ひたる如くなりし解してよろしきやうなり。

 

 六十年に近き昔の新聞文士菊(※ママ……「羽」の誤植か)山菊酔のことは、小生全く知らざれど「岩井松三郎」に現れたる用字例は、今となりては甚だ面白し。

 日々の粒々辛苦、丹精の集積だけが必ず宿すある衝迫力。今も昔も人の一日は二四時間、変わるはずもないその枠の内側で、ならばどのように身と時間とを折り合わせながら紙に向かうものか。「勉強」などという常に借りもの臭いもの言いも、そんな覚悟の下にもっと無理なく身の丈におさまるものになる、と信じたい。

恩は着るもの着せるものに非ず。金は贈ると借すの間にて生くるものなり。